のぶなが
「のぶなが」の名を知ったのは小学校入学前、生家の囲炉裏端であった。生家は琵琶湖西岸の若狭に至る街道沿いにあった。正面には伊吹山が聳え、背後には比良山系の山が迫っていた。村の人々の多くは、その間の狭い土地に米を作って暮らしていた。信長を語ったのは明治20年生まれの祖母である。その昔、酷いことをしたという。しかし、「酷い」内容までは語らなかった。
それから半世紀がたち、定年を迎えた。このことが気になり、郷土の古文書研究家に何か記録が残っていないかと尋ねたが、参考になる様な事は聞けなかった。
その後、信長の側近太田牛一が書いた「信長公記」の存在を知った。それによると、元亀3年(1572年)7月26日、「信長公御下り、直ちに江州高島表、彼の大船を以て御参陣。(中略)高島の浅井下野、同備前、彼等進退の知行所へ御馬を寄せられ、林与次左衛門所に至って御居陣なさる。当表、悉く御放火。」と記されている。
当時、天下統一を目指していた信長は、1570年、姉川の戦いで近江の浅井長政、越前の朝倉義景連合軍を破り、その翌年には比叡山を焼き討ちした。さらに、その後も琵琶湖西岸の高島を支配し続けていた浅井にとどめをさすために火をつけたと思われる。
中世の歴史の研究家によると、火をつけた対象は家屋だけでなく、田畑も焼いたという。7月26日は旧暦で、新暦では8月も終わりの頃になる。収穫間近の米を焼きはらったに違いない。この信長の残虐行為は人々の口から口へと400年もの間、語り継がれてきたのだ。隣国の大統領が歴史と外交を関連させる姿勢には賛同しかねるが、「この恨みは千年経っても消えない」と発言したことは理解できないわけではない。
比叡山の焼き討ちは歴史の教科書にも載っているが、小さな村の出来事までは記録されない。しかも火をつけた行為を「御放火」と尊敬語で表現されるのを読むと、何か違和感を覚える。
一昨年の三月、滋賀県の歴史研究会の催しで、信長が陣を構えたという打下城に上る催しに参加した。60年前に、母と柴刈りに上った所である。その間に、人々の暮らしは大きく変わり、柴はプロパンガスに置き換わった。人が入らなくなった山は、倒木で山道が塞がれ荒れ放題であった。