西国街道を歩く(山崎~高槻)
髙田 忍
10月22日、歴史街道倶楽部の「西国街道を歩く」に参加した。西国街道は京都から西宮までの街道である。東海道から更に西へ向かう街道である。今回は、大山崎(京都)から高槻(大阪)までのコースである。途中阪急電車で移動したが、歩行距離は約9キロ、12000歩であった。
山崎といえば天王山の近くで、天下分け目の合戦があった土地である。
山崎は水が豊富な土地でサントリーの工場がある。
水無瀬川という川がある。普段は水が流れず伏流水になっているが、この日は水が流れていた。この川にとっては珍しい光景であるという。
都の京に近いためであろう。離宮がいくつかあった。後鳥羽上皇の離宮もある。
天皇家の菊の御紋は、ここに由来があるという。この日はお宮参りの家族が参拝し、お爺さんが自動シャッターで撮影していた。
京都と大阪を結ぶ地点にあるため、街道は敵に攻め込まれないよう、直線を避け、ところどころ鍵型に曲がるように作られている。また病気を防ぐ意味でもあるという。
途中、島本という大阪府では唯一の町がある。そこの歴史資料館には昔懐かしい農機具がおかれていた。唐箕というもので、滋賀の生家にもあった。インターネットには次のような説明がある。
風力を利用し穀物[コクモツ]を精選[セイセン]する農具。もみすりをしたあと、玄米といっしょになって混ざっているもみがらや、わらくずを選別するのに用いる農具。
阪急電車高槻駅で下車した。京都と大阪への通勤に便利な町である。今はその面影は一切ないが、かつては高槻城があった。その城主の一人が高山右近でキリシタン大名といわれている。織田信長や豊臣秀吉に仕え、資料館の案内書によると20を超える教会を建設し、当時25千人の人口のうち7割がキリスト教信者であったといわれる。
城郭は石垣も含め明治時代に壊され、一切城の痕跡を見ることはできない。石垣の石は鉄道線路の敷石に使われたりした。
とはいえ、城郭の外に築かれた寺町は残っていて、浄土宗などのお寺が三つ軒を連ねていた。
さらに、寺町から北へ歩き城郭を離れると、住宅街がある。かつての侍屋敷かと思われる。そこにも、細い道路が鍵型に作られていた。鍵型の角には櫓があった。
今回の西国街道を歩く会では窪田純子さんと一緒であった。10年前の9月に同じ歴史街道クラブの若狭小浜一日バス旅行で、隣の席に座った。それ以来、年賀状を交換する間柄になり、今では友の会の監事(会計監査)をしていただいている。
歩く会は高槻駅で解散し、そのあと駅前の喫茶店に入った。今年はコロナとインフルエンザの同時流行の兆しが見えるので、インフルエンザのワクチン接種をするようにとのアドバイスをいただいた。友の会ニュース24号のプリントを渡し、誤字脱字のチェックをお願いした。
2022年10月23日