バルト三国旅行記
11月18日から25日までフィンランド、バルト三国、ワルシャワのツアーに参加した。
Thank You、Hankyuの後呂合わせで39万89百円の往復ビジネスクラスであった。安いだけのことはあった。寒くて暗いという印象しか残らない。そのうえ、早朝にホテルを出発し、数百キロバスで移動、訪問先の町は夕暮れ迫る中を駆け足で回るという物で決して快適という物ではない。食べ物も見た目は悪く味もいまひとつであった。
それでも見知らぬ土地を訪ねるのは新しい発見があって楽しいものである。
1. バルト三国?
バルト三国という名前を知っていたとしても、地図上のどこにあるのか。ましてや三つの国の名前をいえる人は少ないのではないだろうか。首都の名前に至ってはなおさらである。隣国の外交官がバルカン三国というくらいだから知名度は低い。
国の名前を知っていたとしても、北からどのような配置になっているか。
場所はロシアの西の端、北から五十音順にエストニア、ラトビア、リトアニアと並んでいる。人口は南の方に行くほど多くなる。豊かさは北が豊かで南へ行くほど貧しくなる。エストニアの人口は愛媛県と同じくらい132万人しかない。人種、言葉はエストニアが他の二カ国と異なる。
三国とも国旗は三色旗、その色に意味を持たせている。ヨーロッパに三色旗の国が多いのは16世紀には国旗を制定していたオランダをまねたといわれている。いずれの国もEUとNATOに加盟し、通貨はユーロである。かつては国境に検問所が設けられてたが、現在は自由に行き来することが出来、検問所の跡が残っている。センゲン条約に加盟しているからである。センゲンとは条約が締結された町の名前に由来する。
いずれにしても、日本の県くらいの大きさで、一つの国を構成している。ワルシャワのホテルで見たBBC放送の天気予報では登場しない国である。
2. 冬のヨーロッパ
冬の北ヨーロッパは暗くて寒い。日の出が8時半、日の入りが午後3時半、そのうえ空は毎日雲で覆われていたため、一日中鬱陶しい。
ヘルシンキからエストニアに向かう船、午前10時頃撮影したが曇り空で薄暗い。
道路わきの風景は、北から南に進むにつれ少しずつ変わる。エストニアでは白樺林が多く見られたが、次第に赤松の林に変わり、やがて広い野菜畑になる。
三国を結ぶ道路は直線、片側一車線、暗いので昼間もライトをつけている。
ようやく明かりが見えたのは杉浦千畝記念館を訪れた5日目、なんだか象徴的。1940年8月にポーランドから押し寄せたユダヤ人がかすかな光を見たのではないだろうか。
冬とはいえ花屋が目立った。ワルシャワ市内ではハボタンの寄せ植えが街路にかざられていた。
冬といえばクリスマス市、広場にツリーが飾られ店が並ぶ。寒さで防寒用の帽子を買った。15ユーロ。
3. ヨーロッパならではのこと
日本と違う点は、どの小さな町でも城壁で守られていることである。小さな門と城壁がセットになっている。そして広場がある。道は石畳で歩きにくい。
キリスト教会が沢山ある。プロテスタント系は質素でポルトガルで見た金銀をちりばめるようなことはない。ロシア正教は玉葱型である。十字架の下の方にある月はイスラムを表しジュ、十字軍が勝ったことを意味する。
水はガス入とガスなしがある。ガス入りはSparkling、ガスなしはStillと表示されている。1.7ユーロ、約200円で日本より高い。
町で見かけた派手な救急車。クロスした三本の青い線に中に蛇と杖が書かれている。スターオブライフというシンボルマークはアメリカが赤十字と区別するために1973年に考え出したもので、その後世界に広まった。日本の救急車にも使われている。蛇と杖は古代神話に由来する。
4. 杉浦千畝記念館
杉浦千畝は、ドイツに侵攻されされポーランドから逃れてきたユダヤ人1600人に命のヴィザを発給した。家族を含めると6000人の命が救われた。リトアニアもソ連が侵攻し領事館は退去を求められていた緊迫した状態の中であった。
ヴィザには滞在期間は拾日限りで敦賀上陸と書かれている。それまで薄暗いヨーロッパであったが、この日は日が出て少し光が見えた。79年前を象徴するようであった。
ユダヤ人はこの駅から列車に乗って、シベリヤ経由で敦賀に向かった。シベリヤを通過するのに2週間かかったと館内の説明に書かれていた。
5.ワルシャワ
ポーランドは3回目、ワルシャワは2回目、ほぼ20年ぶりである。当時はソ連の支配から解放されて10年経ちNATOに加盟した年だが、ソ連の雰囲気が色濃く残っていた。目立つ建物といえばスターリンが建てた高い建物であった。他にもごつごつとしたアパートが立ち並んでいた。
今は文化科学館となっている。30階の展望台に上った。夕方の曇り空で視界はよくなかった。20年も経つとすっかり近代的な街に変わり、高層ビルが林立していた。
ポーランドといえば、地動説をとなえたコペルニクス、放射線でノーベル賞を二度も受賞したキューリー夫人、作曲家ショパンである。
ショパン博物館には、自筆の楽譜やピアノが展示されていた。
ショパンの心臓が葬られている聖十字架教会。
キューリー夫人博物館
日本語を話すガイドはしきりに蜂起という言葉を口にした。ある時はドイツに、ある時はロシアになった歴史がある。ワルシャワは第二次大戦で壊滅的被害を受けたが、戦後旧市街は瓦礫を集めて修復された。そのため例外的に世界遺産に指定されている。20年前とほとんど変わっていない。
ここも城壁がある。
6.町で見かけた日本語
フィンランド:ヘルシンキのホテルの隣 北海道寿司
ヤクザという名前のすし屋(ラトビア)には驚いた。
同じくラトビアの町の中でみた茶道の文字、何のためかよくわからない。
現地語に並んで日本語が並んでいる。
教 会の中で、他の外国語に並んで日本語の小さな紙きれの案内が置かれていた。
リトアニアのリネンの店に八女茶が売られていた。
ワルシャワ市内の看板、琥珀の店でカタカナでアンバーと書かれていた。
エストニアの首都タリンの市庁舎前の駐車場。トヨタが三台並んで駐車。日本車はどこでも見かけた。トヨタのタクシーもあった。
最後はヘルシンキ空港内のラーメン屋。空港の中も日本語の案内表示があった。
ヘルシンキへは最短ルートで9時間の飛行、便利な空港である。フィンエアー機内のモニターでは機外に付けられたカメラで外の様子が写される。これを見ていると退屈しない。