トルコとギリシャの旅

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 トルコとギリシャの旅

(2018,9,9~9,18)

なぜトルコとギリシャ

トルコとギリシャのツアーに参加した目的は、一つにはテレビで見たトルコの岩だらけのカッパドキアを見たかったこと、もう一つは世界史で習ったアテネのパルテノン神殿を見たいからであった。

 

エアバスA380で

9月4日に襲来した台風21号で関西空港の国際線滑走路が水を被り閉鎖された。9月9日の出発が危ぶまれたが、7日になり成田、バンコク経由で出発するとの連絡があった。かなり体力的に疲れると思ったが、準備してきたこともあり参加することにした。

新幹線品川駅で下車し、成田エクスプレスに乗り換えた。成田からバンコクまではANA、バンコクからエミレーツ航空である。機種はエアバスA380で、一階はエコノミー席、2階がビジネスクラスであった。二階後方にラウンジもありシャワーの装置もある。ラッキーであった。近く大阪ドバイ間に就航することになっている。

 

トルコ国内はバスで移動した。VIPとフロントに書かれていたが、シートベルトの不具合やトレーが壊れていて、EU基準を満たしているか疑問であった。

カッパドキアでは洞窟内のホテルに宿泊した。

カッパドキアからはかつてのシルクロードを西進した。隊商宿やイスラム色の強いコンヤを経由して次の温泉町までは600キロを超える長旅であった。早朝に出発してホテルには9時に着き、荷物を部屋に置く前に夕食という強行軍であった。

トルコからギリシャはエーゲ海の島々を巡るクルーズ船に乗った。船室は窓側にアップグレードされたが、スーツケースを置くのに一苦労する狭さでエアコンも効かないありさまでとても快適とは言えない。

帰りは関空に到着、回復の速さに感心した。リムジンも運行しており思ったより一時間早く帰宅できた。

強行軍の旅で体力的には疲れたが、気軽に話しかけてくれる人と巡り合い楽しい旅となった。旅は道連れ、世は情け。

 

 

文字

イスタンブールの二日目、文字がすべてアルファベットであることに気付いた。これまでイスラムの国ではアラビア文字が使われていると思い込んでいた。ガイドに質問すると、1923年にアルファベットが採用されたという。目的の一つは識字率の向上であったという。オスマントルコは第一次世界大戦で敗れ、トルコ革命がおこった。指導者のケマルは政教分離、ローマ字採用、女性参政権など近代化政策を進めた。

言葉には英語の影響とみられるものもあった。SIGARAは煙草のことと推測できる。

ギリシャでは勿論古代からのギリシャ文字である。αβγなどの小文字は数学で習うが、大文字はよく分らない。写真はアテネ市内のタクシーの文字である。屋根に「TAΞI」と書かれていた。Ξは「くし」と読む。町中の標識はギリシャ語と英語が併記されていて旅行者には親切である。

 

トイレ

エミレーツのラウンジはバンコク、ドバイ共にTOTOの製品を使っていた。トイレットペーパーの先端を三角に折るのは日本人のおもてなしの現れであると何かで読んだが、このラウンジはじめインスタンブールのホテルでも三角に折られていた。ある日本人の思い込みに違いない。

トルコでは、都市部のトイレは洋式であったが、地方には和式が多かった。どちらを向いて用を足すのか良く分らず手すりもなく不便この上ない。

ギリシャのクレタ島のCaféで、無料で貸してもらったトイレは紙が流れない。よく見ると紙を流さないようにとの英語の注意書きがあった。この点では南米ペルーの首都の一流ホテルと変わらない。

手を洗う蛇口の栓は、日本では上に上げるのと下に下げるのが混在しているが、トルコではすべて上に上げるものであった。

トイレの男女表記では、単数のもの複数のものが混在していた。複数の人が利用するのでMen、Womenが正しい。日本でも誤表記が多い。

 

人人人、車車車

インスタンブールでもアテネでも車が渋滞していた。インスタンブールでは、車道でペットボトルの水を売る少年がいた。まるで20年前のメキシコのようだった。アテネでは車の間をバイクがすり抜けていく。これだけ車が多くても、日本車は少なかった。おそらく高い割には高級感のない中途半端な車と思われているのかもしれない。

人の多さにも閉口した。エーゲ海に浮かぶサントリーニ島は日没がきれいなことで有名で、小さな村にはその光景を見に多くの人が押し寄せた。狭い道は人でごった返し、そのうえ石畳で歩きにくく足の裏が痛くなった。またアテネのパルテノン神殿の見学通路は満員の地下鉄のように身動きが取れないほどであった。

 

日の出と日没

カッパドキアの風景と日の出と日没

 

サントリニーア島(エーゲ海)の風景と日没

キリスト教とイスラム教

この地は、先ずギリシャ文明が栄えたあとローマ帝国が支配する。西ローマ帝国が滅びた後も東ローマ帝国がキリスト教を国教にしてコンスタンチノープルを首都にして栄える。そこにイスラムのオスマントルコが侵入するという歴史をたどった。

インスターブールのアヤソフィアはキリスト教会であった。オスマンが侵攻した後キリスト像を残してイスラム教の寺院になった。今は両者の共存を願って博物館になっている。その隣に立つブルーモスクは、1000年後に建てられたが、規模は大きいがアーチの大きさでアヤソフィアに及ばない。

カッパドキアには、ギョレメ野外博物館があった。所謂隠れキリシタンのいた洞窟である。壁に描かれたキリストの目や顔がえぐり取られていた。見つめるイスラム教徒が見つめると、改宗することを恐れたからとの説明であった。

 

トルコ商人

エジプトバザールをはじめ立ち寄った土産物店では日本語で「二個千円」と何とかの一つ覚えで迫って来る。なによりもカッパドキアの絨毯と最終日のレザーの店の営業マンの巧みな日本語を使っての商魂の逞しさには感心した。その熱意につい買ってしまうことになった。

先日NHKで、絨毯とカーペットは同じか違うかのクイズをしていたが、日本語か英語かの違いに過ぎない。写真ではよく分らないが門のところに「Carpets」と書かれていた。

絨毯を織るのは主婦の仕事で、訪れた洞窟に住む民家に織る器械が置かれていた。最近の若い女性は他の仕事を求めて、絨毯織はしなくなったという。この民家は四代目で先祖伝来の絨毯が敷かれていた。岩の上であったが、足が痛いと感じる事はなかった。洞窟に住む家族は5家族のみで、政府が世界遺産を理由に追い出しにかかっているそうだ。

レザーの店では、ファッションショウの後セールスマンが近寄ってきてコートを買う羽目になった。薄くて軽いのがセールスポイントである。いよいよ20年前に買ったコートとお別れすることにした。

 

 

遺跡と歴史

バムッカレはトルコ南西部の温泉地である。ホテル内に露天風呂があった。中国人女性が写真を撮ってくれた。

近くに石灰棚があり、温泉がローマ時代の療養所になっていた。石灰棚は雪山のようである。

美の女神に由来するアフロディスィアスの遺跡

アフロディシアスは、紀元前2世紀から6世紀まで栄えた古代ギリシャ・ローマ時代において最も壮大な都市のひとつといわれている。トルコ人学者が生涯をかけて発掘した。遺跡内には学者の墓があった。

エフェソス遺跡

エフェソス(ギリシャ語:Έφεσος, ラテン文字表記:Ephesos/Ephesus)は、トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置している。古典ギリシャ語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシャ人都市であったが、のちにキリスト教を受容し、新約聖書にもエフェソの信徒への手紙がある。(ウィキペディア)

ガイドの説明によれば、世界最古の職業の館もあったという。

パルテノン神殿

アテネのペリクレスが建設した。アクロポリスの丘にある。

さいごにトルコ・ギリシャ旅行の注意

トルコでは人通りの多い露店の試食品には絶対手を出さない事、ホテルの生野菜も控えた方が良い。どのような水で洗っているかわからない。

アテネには集団スリが多い。バッグやリュックは前に持ち、財布は人の前では出さず、パスポートは腹巻に巻くなど細心の注意と警戒を怠らないことが大切だ。      

(218,9,20髙田 忍)

 

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