ポルトガルを旅して
(2018年3月24日~28日)
なぜポルトガル?
3月23日から30日まで、旅行会社のポルトガルツアーに参加した。往復の3日を差引くと、現地滞在は24日から28日までの5日間であった。今日にいたるまで、仕事の出張も含めて30数ヶ国を訪れたが、ポルトガルはなぜか後回しになっていた。この国は日本に鉄砲やキリスト教を伝えた国で、日本にとっては最初にヨーロッパ文明に接した国である。フランシスコザビエルの名前は誰もが知っているし、学校では外来語のシャボン、カルタ、カッパ(合羽)はポルトガル語に由来すること、歴史の時間にはバスコ・ダ・ガマも教えられる。日本人にとっては縁の深い国で、是非訪ねてみたいと思っていた。
日本との関係
日本人にとっては、このようにポルトガルは心の中に潜んでいるが、この国ではそれほど日本が意識されているようには思えなかった。その理由は秀吉より後の時代に、キリシタンを迫害し虐殺したことが潜在的にあるのかも知れない。最後に訪れた商業都市ポルトのサンフランシスコ教会の壁には、イスラムに虐殺された聖人並んで日本での殉教者の像があった。
リスボンの川沿いの公園の路面には、世界地図描かれポルトガル人が発見した国の年代が記されている。日本に到達したのは1541年のことである。ポルトガルにとっては、日本は彼らが到達した多くの国の一つにすぎないようだ。
初日に訪れたリスボンの教会には、天正の少年使節の像が描かれていた他には、関係を示すようなものには接しなかった。
コインブラという学問都市の郊外、貴族の館というホテルには白い砂の上に石を並べた日本風庭園があり、傍には竹林があり、筍が既に芽を出していた。
葦(よし)の群生が各地にみられ、日本と同じく日よけに利用しているのは興味深かった。
ポルトガルという国
人口は約1000万人、国土面積は日本の4分の一という小さな国である。そのためかポルトガルがニュースになることは少ない、例えば、国際政治で重要な役割を果たすこともないし、世界経済に大きな影響を与えるような重要な産業があるわけでもない。
ポルトガルという国名は北部の商業都市Portoに由来する。英語の港を表わすportもここからきているとの現地にガイドの説明であった。そのため、古くから海に目を向けたらしい。1500年代の大航海時代にインドから胡椒を、南米から金や銀の財宝を持ち帰った。おそらく石見銀山の銀も得たに違いない。多くの財宝がイギリスやオランダのように、大西洋三角貿易などの新たな投資に使われていれば違った姿になったかも知れない。多くの金や銀は教会という宗教施設の装飾につぎ込まれた。そのためか観光で訪れる場所といえば、ロカ岬を除けば必然的に教会や修道院に限られてしまう。
コインブラ大学は日本の安土桃山時代に創立されたという。世界でも有数の歴史のある大学である。30万冊の蔵書が保存されている。
しかし、大学は古いことに価値があるわけではない。その後の歴史にどの様な役割を果たしたかが問われる。英国やドイツのような科学上の重要な功績は見られない。江戸時代の藩校に由来する日本の大学さえ、多くのノーベル賞学者を輩出している事実とつい比較してみたくなった。
交通システム
日本に比べると、自動車の運転手のマナーは良い。横断歩道に人がいると止まってくれる。もっとも赤信号で渡る人が警官に見つかった場合罰金を取られるそうだ。場所によっては片側4車線もある高速道路でも、あおり運転をする姿は見かけなかった。これに比べて街の中は道幅が狭いうえに両側に駐車する。その間をバスが通り抜ける。渋滞も発生する。
リスボンの地下鉄は日本の通勤電車並みの混雑で、スリが多いというので緊張せざるを得なかった。
世界にはイギリスや日本のように、自動車も鉄道も左側通行の国がある。これとは反対にドイツやアメリカは、いずれも右側通行である。その中間型がフランスで、自動車はドイツと同じ右側、鉄道はイギリスと同じ左側通行である。
なぜこのようなことになったか。最初に、イギリスが馬車の御者が座る位置が右側で左すれ違い際に左側に寄せたことから自動車も左側通行に決めた。ところがヨーロッパ大陸ではナポレオンが支配していて、イギリスと反対の仕組みにしたという。その後、鉄道の時代になると、蒸気機関車を発明して鉄道網を作ったイギリスが自動車と同じ左側にした。フランスはイギリスから鉄道技術を学んだので鉄道は左側、自動車は右側という折衷型になった。しかし、フランスでは同じ鉄道でも地下鉄は路面電車の延長という考えから右側になっている。世界にはこの三つの型しかないと思っていた。ところがポルトガルは違った。地下鉄も鉄道と同じ左側であった。新たな発見であった。
ワイングラス
春がまだ早いというのに、思いのほか緑が豊かであった。高速道路沿いにはいたるところで葡萄畑を目にすることが出来た。ワインは日常の飲み物のようで、レストランでは、水とともにワインが無料で供された。
これまで訪れたヨーロッパの各国では、ワインのグラスに目盛り線が入っていた。20数年前に駐在したドイツでは、度量衡法という法律で目盛り線が義務付けられ、例えば150mlの線が入っていた。営業としてワインを客に提供する店は、この目盛り線までワインを注がなければ罰せられるし、反対に客はその線まで注ぐことを店に要求できる。日本の枡酒のように溢れるばかりに次いでくれる文化とは違う堅苦しさに感じたことがある。
4年前に訪れたチェコのプラハ、昨年のクロアチアでも目盛線が入っていた。ドイツの法律がEU法に取り入れられたものと思っていた。
ところが、ポルトガルやスペインのレストラン、ホテルで目盛入りグラスは見かけなかった。謎として残った。
ポルトガル語
日本人が学んだポルトガル語を探すのも目的のひとつであった。タバコがその一つである。リスボンの空港の外に出ようとするとき、大勢の出迎えの人がいた。突然煙草の匂いがしてバスに乗るまで漂っていた。路上には吸い殻が多い。
合羽は日本語化している。普通日本語は連濁といって「灰(はい)」と「皿(さら)」がつながると、後ろの言葉が濁って「灰皿(はいざら)」となる。しかし外来語の場合は、例えば「紙」と「コップ」を組み合わせても「かみこっぷ」で「かみごっぷ」とはならない。ところが、合羽の場合は「雨合羽(あまがっぱ)」と濁る。漢字も当てられ日本語化した言葉である。
写真はコインブラ大学の学生が着ているカッパである。
東京は「Tokyo」(英語)とか「Tokio」(フランス語)で表現される。ポルトガル語では「Toquio」であった。
6年ぶりの再会
今回の旅は、初日のホテル到着時間が真夜中の1時、最終日の出発時間が早朝の4時というハードなスケジュールが組まれていた。多くの見学先はキリスト教会や修道院が多く、ゴチック建築だ、ロマネスクだと言われても事前の知識がなければ違いが即座に分からない。その上、街の歩道のほとんどは石畳で足に負担がかかってしまった。初日のリスボン、最終日のポルトの自由散策には参加せずホテルのベッドで横になった。
それでも、今回の旅はこれまでと違って思わぬ出会いがあり実り多い旅であった。ツアーの参加者は16名で、ほどなく顔を覚え打ち解けた。ほとんどの人がすでに仕事から離れた人で、中には校長先生、数学の教師、会社役員などさまざまであった。
4泊目のホテルでのことである。部屋のキーが渡されエレベーターに乗ろうとするとき、背後から「高田忍さんでしょう」と女性に呼び止められた。荷物の名札を見て確認したらしい。「歴史街道」「カモミールおいしい」「五味先生」と立て続けにキーワードを並べられたが誰か思い出せない。その時は患者会のひとりかもしれないと思った。
夕食のテーブルで隣り合わせになった。年賀状を交換していると言われ、ようやく大阪の下町で開業されている医師であることを思い出した。6年前、歴史街道倶楽部で京都から若狭の小浜へ行くバス旅行に参加した。窓側の席に座っていると、後から乗ってきた女性が空いていますかと尋ね座った。「JRが遅れるといけないので、昨晩は京都駅近くのホテルに泊まったという」ことから会話が始まった。小浜への途中、郷里の湖西街道を走ったので説明をした。神宮寺や東大寺お水取の源などを訪ねた後、京都府と滋賀県の境の鯖街道を通って京都へ戻る途中、「一人暮らしですか」と尋ねると「主人がいます」との返答と共に、名刺を頂いた。そこには、医師と書かれていた。終末医療について質問するうちに、あっという間に京都に着き、新大阪まで話し続けだったと思う。それ以来年賀状の交換が続いている。
それでも記憶力が衰えたせいか、名前が出てこない。一晩中名前を思い出そうとした。名前に「田」ついたはずだ。翌日のバスは6年前と同じく隣り合わせになった。ようやく思い出し名前を確認すると「よしこ」と読みますとのことであった。キリスト教信者にとって三大聖地の一つサンチャゴを見下ろす丘の上に立つ巡礼者の像の前で写真を撮った。
翌日ポルトのワイナリーの見学が終わった所で、友の会の定例会で「老人医療について」というテーマで講演を依頼すると快諾していただいた。思いもよらない人に再会し、有意義な旅であった。
(高田 忍)