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富士山とダイヤモンドプリンセス号
富士山とダイヤモンドプリンセス号
2月5日、日本医療研究開発機構の主催による「AMED再生医療公開シンポジウム」に参加するために上京した。会場は品川にあるTKPガーデンシティーであった。
参加申し込みと同時に往復の格安航空券を購入した。冬の太平洋岸は天気が良いので、上空から富士山の写真を撮影しようと考え、行きは左側、帰りは右側の窓側の席を予約した。
伊丹空港を離陸すると急に左旋回をする。かねて撮影したいと思っていた昆陽池(伊丹市)が目に入った。近くにはかつて勤務した工場がある。池には日本列島を模した島がある(画面右下)。
飛行機はやがて紀伊半島を通過し、名古屋上空に差し掛かった。はるか前方に富士山が浮かんだ。
伊豆半島を超え三浦半島に差し掛かると左に旋回、東京湾を北上し着陸態勢に入った。横浜港の上空に差しかかった頃、再び美しい富士山が見え何枚も撮影した。数日経って、画面を良く見ると左下に大きな船が写っている。形から見て、クルーズ船「ダイヤモンドプリンセス号」であることに気付いた。貴重な写真ではないかと思う。
翌2月6日も天気が良かった。大阪行きは少し山側の航路を飛ぶ。富士山の火口が見え、その上の方には南アルプスの山々が雪に覆われていた。
伊丹空港からモノレールに乗り阪急に乗り換えようとした時である。携帯に電話がかかった。
大学時代の友人T君からである。「どこからかけていると思う?」「クルーズ船からでしょう」。彼は一年に何回もクルーズの旅をしている。ニュースを聞きながら「もしかして」の予感が的中した。感染しないで早期に下船できることを祈る。
高田忍(2020,02,10)
NPO法人役員変更マニュアル
特定非営利活動法人(NPO法人)の役員変更の手続
はじめに
NPO法人の組織運営は定款の規定に従って行われる。定款には役員の任期が2年と規定されている。再任は妨げないとの但し書きがついている。任期の最終日に一旦退任し、新たに就任することを意味する。
透明性を持って組織運営するためには、原則として、規定に沿った手続きを行う必要がある。以下はNPO法人黄斑変性友の会が、発足後二年目に行った役員の変更手続きである。手続きには内部手続きと外部手続きがある。
[Ⅰ]内部手続き
1.総会
役員の選任は定款の規定に従って、総会の議決が必要である。
総会は会員の半数以上の出席をもって成立します。出席には委任状による出席を含める。そのため、事前に総会の招集通知を出し、出席できない会員から委任状の提出を求める必要がある。
総会が終了後、議事録を作成する。
議事録に記述する事項は以下のとおりである。(総会議事録の様式はP4)
1)開催年月日及び時間
2)開催場所
3)出席会員数(委任状)、正会員数
4)議長の選任
5)議事
議事には1号議案として理事の選任、2号議案として議事録署名人の選任
選任された理事について再任、新任、氏名、住所を記載する。
2.理事会
理事会では理事長、副理事長の選定を行う。
総会で選任された理事で理事会を開催する。
<開催日時>
*理事が全員重任の場合
予選が可能なので、総会後(今回の場合なら12/2の総会開催後に、12/31の任期満了を待たず)に理事会を開くことができる。
*理事に1名でも変更があった場合
予選は出来ないので、任期が開始されて以降となる。具体的に、例えば前の任期が12月31日に終了していれば、任期の開始は1月1日です。理事会は1月1日以降の早い時期の行うことが望ましい(理事長・副理事長が不在となるため)が、いつまでにという規定はない。
その後、議事録を作成する。議事録の形式は総会議事録と変わらない。
(1)開催日時と時間
(2)場所(建物名、会議室名、所在地)
(3)理事総数と出席理事数(出席した理事の氏名を記載する)
(4)審議事項(理事長、副理事長の選定)
(5)議事の経過の概要及び議決結果(議長名、署名者を記載)
議案:理事長、副理事長の選定の件と記載し、役職名と氏名を記録する。
(6)理事長(当法人の理事会の場合は議長)の印鑑は、(個人の印鑑ではなく)法人の代表印を押印すれば、他の議事録署名人は認印で良く、実印・印鑑証明は省略できる。
[Ⅱ]外部手続き
この結果を受けて、登録している自治体への報告と法務局への登記変更申請をする必要がある。
1.自治体(大阪市)への届(役員に変更が無くても2年に1度)
提出書類は3つです。
(1)役員等変更届書
(2)役員名簿(氏名と住所)
(3)就任承諾書と誓約書(新任の役員が所定用紙に署名捺印する。再任の場合は不要)及び住民票
市の担当者はその場で提出書類をチェックします。新任の理事については、住民票の住所と一致しているか確認する。全て形式的な確認のみで受理される。
大阪市の手続きは以下のホームページに掲載されている。
https://www.city.osaka.lg.jp/shimin/page/0000209173.html#02
2.法務局への登記変更申請(理事長に変更が無くても2年に1度)
提出書類は4つです。
(1)変更登記申請書(P5参照)
登記内容は理事長の退任と就任である。
登記すべき事項に次の事項を記入
退任年月日 退任
住所
氏名
就任年月日 就任
住所
氏名
(2)総会議事録
(3)理事会議事録
(4)定款(最後に自筆で「これは現行定款と相違ありません。」と書き、法人名と理事長の署名捺印をする。割り印)
法務省のホームページには、このほか就任承諾書や印鑑証明が記載されているが必要ない。
窓口は受付番号を押すだけで書類を受領します。不備がある時は、時間をおいて電話で指摘を受ける。今回は、登録した印と押印した印が異なるとの指摘を受けた。会の名称変更をしたとき,改印の手続きをしていなかった。そのため、改めて改印届を提出した。改印届には、団体の印の他に、代表者の実印、印鑑登録証明が必要である。
訂正の後、数日して登記事項証明を受け取ることが出来る。
全て形式的な書面上の確認が行われるだけで、実際に総会や理事会が開催された事実の確証を求められることはない。
役員変更登記の手続きは法務省のホームページに掲載されている。
http://houmukyoku.moj.go.jp/homu/COMMERCE_11-1.html#anchor4-3
[Ⅲ]事実経過
2019年
11月27日 提出した書類(事業報告)の不備を指摘されたため、
大阪市役所 市民局NPO担当を訪問。
役員の任期が12月末で終了との指摘を受け、提出
書類の様式を受け取った。
直ちに、現理事に再任承諾を求める書状発信。
12月 2日 大阪市中央公会堂で定例会開催
(議事録では総会とした)
12月5~7日 現理事6名の内、5名が再任承諾。
2020年
1月8日 二水会開催(議事録では理事会)とした。
出席した女性会員4名に口頭で就任要請した。
内3名が承諾、他に女性(東京在住)男性
(京都在住)に要請した所、女性(東京)が
承諾した。
性別、地域のバランスを考慮して選定。
1月24日 大阪市に役員変更届書を提出。
一部の地名に記入漏れがあったので、手書きで
修正。(最初の法人登録時には、誤字(ヶとケ)
に対して再提出を求められた)
1月28日 総会議事録、理事会議事録に署名捺印を依頼(星野さん、
末田さんを訪問)。
1月29日 午前10時30分、法務局に登記変更申請提出した。
午後4時頃、代表者印が登録印と異なるとの電話
連絡あり。
1月31日 改印届と本人印鑑証明書を提出し、手続きはすべて完了した。
ミステリーツアー
ミステリーツアー
1月14日から二泊三日のミステリーツアーに参加した。ミステリーツアーとは予め目的地が分らないツアーのことをいう。とはいえ、おおよその予想をすることはできる。冬の東北と予想した。
集合は午前7時5分伊丹空港であった。予想した通り仙台行きのANAに乗った。薄曇りであったが富士山を見ることが出来た。写真は山梨県の上空から撮影したものである。右下に光るのが富士五湖の一つである。富士山の向こうに光っているのは、太平洋である。
仙台空港でバスに乗り換えた。バスは東北自動車道を北へ進み、盛岡ICで一般道に入った。秋田県に入った。行先は田沢湖からさらに北の山中にはいった「乳頭温泉郷にある大釜温泉」であった。廃校になった小学校に温泉があった。
ここから、駒ヶ岳を見ることが出来た。
温泉に入った後、元来た道を戻り岩手県盛岡市の郊外にある「つなぎ温泉」のホテルに泊まった。
二日目、バスは7時30分に出発した。再び東北自動車道に入り北上する。鹿角ICで出て、一般道を南下した。この頃、雲一つない天気に変わっていた。田園地帯を通り抜け、やがて山の中に入る。青空を背景にした湯煙の光景は美しかった。
朝から温泉に入った。後生掛温泉という。
下山の途中、「死の雪中行軍」で知られる「八甲田山」が見えた。
昼食は鹿角市内の道の駅で秋田県特産の「きりたんぽ鍋」を食べた。この付近には小坂という町がある。かつて鉱山の栄えた町である。明治時代に建てられた芝居小屋を見学した。従業員とその家族のための娯楽施設である。
回り舞台の下に入り、八人がかりで回した。意外と軽く回る
その後、「瀬戸内寂聴」も訪れたという「新安比温泉」に入った。バスは「当方自動車道」を南下、石川啄木や宮沢賢治の生誕地を通過し、南花巻温泉に宿泊した。結局、この日は四回も温泉に入ったことになる。写真は車窓から見た岩手山である。
翌日、花巻空港からJALに乗った。新潟上空と通過し名古屋まで南下、方向を西に替えた。鈴鹿山脈上空から琵琶湖を撮影することが出来た。画面の中ほどの山は観音寺城跡と思われる。琵琶湖の先にはうっすらと比良山系の山が霞んで見える。今年は雪が見られない。
ミステリーツアーとはいえ、過去に何度も通ったことのある道を行ったり来たりする。今回も目新しいものといえば芝居小屋くらいであった。やはり目的地は初めからはっきりわかっていた方が良いいと思う旅であった。
(2020,1,21 髙田 忍)
「患者・家族のための災害対策ハンドブック」
「患者・家族のための災害対策ハンドブック」
2019年10月29日(火)開催された製薬協セミナーで熊本難病・疾病団体協議会から患者とその家族のために有用な「災害ハンドブック」の説明が有りそのハンドブックを掲載します。
pdfファイル→熊本難病・疾病団体協議会「患者・家族のための災害対策ハンドブック」
上記pdfファイルをクリックすると、画面が一旦ファイル表示画面に切り替わります。さらにその画面をクリックするとファイルが開くようになっております。ご注意下さい。
バルト三国旅行記
バルト三国旅行記
11月18日から25日までフィンランド、バルト三国、ワルシャワのツアーに参加した。
Thank You、Hankyuの後呂合わせで39万89百円の往復ビジネスクラスであった。安いだけのことはあった。寒くて暗いという印象しか残らない。そのうえ、早朝にホテルを出発し、数百キロバスで移動、訪問先の町は夕暮れ迫る中を駆け足で回るという物で決して快適という物ではない。食べ物も見た目は悪く味もいまひとつであった。
それでも見知らぬ土地を訪ねるのは新しい発見があって楽しいものである。
1. バルト三国?
バルト三国という名前を知っていたとしても、地図上のどこにあるのか。ましてや三つの国の名前をいえる人は少ないのではないだろうか。首都の名前に至ってはなおさらである。隣国の外交官がバルカン三国というくらいだから知名度は低い。
国の名前を知っていたとしても、北からどのような配置になっているか。
場所はロシアの西の端、北から五十音順にエストニア、ラトビア、リトアニアと並んでいる。人口は南の方に行くほど多くなる。豊かさは北が豊かで南へ行くほど貧しくなる。エストニアの人口は愛媛県と同じくらい132万人しかない。人種、言葉はエストニアが他の二カ国と異なる。
三国とも国旗は三色旗、その色に意味を持たせている。ヨーロッパに三色旗の国が多いのは16世紀には国旗を制定していたオランダをまねたといわれている。いずれの国もEUとNATOに加盟し、通貨はユーロである。かつては国境に検問所が設けられてたが、現在は自由に行き来することが出来、検問所の跡が残っている。センゲン条約に加盟しているからである。センゲンとは条約が締結された町の名前に由来する。
いずれにしても、日本の県くらいの大きさで、一つの国を構成している。ワルシャワのホテルで見たBBC放送の天気予報では登場しない国である。
2. 冬のヨーロッパ
冬の北ヨーロッパは暗くて寒い。日の出が8時半、日の入りが午後3時半、そのうえ空は毎日雲で覆われていたため、一日中鬱陶しい。
ヘルシンキからエストニアに向かう船、午前10時頃撮影したが曇り空で薄暗い。
エストニアの首都タリン、旧市街を望む、その先に海がある。
道路わきの風景は、北から南に進むにつれ少しずつ変わる。エストニアでは白樺林が多く見られたが、次第に赤松の林に変わり、やがて広い野菜畑になる。
三国を結ぶ道路は直線、片側一車線、暗いので昼間もライトをつけている。
ようやく明かりが見えたのは杉浦千畝記念館を訪れた5日目、なんだか象徴的。1940年8月にポーランドから押し寄せたユダヤ人がかすかな光を見たのではないだろうか。
午後1時頃の太陽の高さである。
冬とはいえ花屋が目立った。ワルシャワ市内ではハボタンの寄せ植えが街路にかざられていた。
同じワルシャワ市内で、街路樹の普段桜が満開であった。
冬といえばクリスマス市、広場にツリーが飾られ店が並ぶ。寒さで防寒用の帽子を買った。15ユーロ。
3. ヨーロッパならではのこと
日本と違う点は、どの小さな町でも城壁で守られていることである。小さな門と城壁がセットになっている。そして広場がある。道は石畳で歩きにくい。
キリスト教会が沢山ある。プロテスタント系は質素でポルトガルで見た金銀をちりばめるようなことはない。ロシア正教は玉葱型である。十字架の下の方にある月はイスラムを表しジュ、十字軍が勝ったことを意味する。
水はガス入とガスなしがある。ガス入りはSparkling、ガスなしはStillと表示されている。1.7ユーロ、約200円で日本より高い。
町で見かけた派手な救急車。クロスした三本の青い線に中に蛇と杖が書かれている。スターオブライフというシンボルマークはアメリカが赤十字と区別するために1973年に考え出したもので、その後世界に広まった。日本の救急車にも使われている。蛇と杖は古代神話に由来する。
4. 杉浦千畝記念館
杉浦千畝は、ドイツに侵攻されされポーランドから逃れてきたユダヤ人1600人に命のヴィザを発給した。家族を含めると6000人の命が救われた。リトアニアもソ連が侵攻し領事館は退去を求められていた緊迫した状態の中であった。
ヴィザには滞在期間は拾日限りで敦賀上陸と書かれている。それまで薄暗いヨーロッパであったが、この日は日が出て少し光が見えた。79年前を象徴するようであった。
記念館の門には「希望の館、命のヴィザ」と書かれている。
ユダヤ人はこの駅から列車に乗って、シベリヤ経由で敦賀に向かった。シベリヤを通過するのに2週間かかったと館内の説明に書かれていた。
5.ワルシャワ
ポーランドは3回目、ワルシャワは2回目、ほぼ20年ぶりである。当時はソ連の支配から解放されて10年経ちNATOに加盟した年だが、ソ連の雰囲気が色濃く残っていた。目立つ建物といえばスターリンが建てた高い建物であった。他にもごつごつとしたアパートが立ち並んでいた。
今は文化科学館となっている。30階の展望台に上った。夕方の曇り空で視界はよくなかった。20年も経つとすっかり近代的な街に変わり、高層ビルが林立していた。
ポーランドといえば、地動説をとなえたコペルニクス、放射線でノーベル賞を二度も受賞したキューリー夫人、作曲家ショパンである。
ショパン博物館には、自筆の楽譜やピアノが展示されていた。
ショパンの心臓が葬られている聖十字架教会。
キューリー夫人博物館
日本語を話すガイドはしきりに蜂起という言葉を口にした。ある時はドイツに、ある時はロシアになった歴史がある。ワルシャワは第二次大戦で壊滅的被害を受けたが、戦後旧市街は瓦礫を集めて修復された。そのため例外的に世界遺産に指定されている。20年前とほとんど変わっていない。
ここも城壁がある。
6.町で見かけた日本語
フィンランド:ヘルシンキのホテルの隣 北海道寿司
ヤクザという名前のすし屋(ラトビア)には驚いた。
同じくラトビアの町の中でみた茶道の文字、何のためかよくわからない。
現地語に並んで日本語が並んでいる。
教 会の中で、他の外国語に並んで日本語の小さな紙きれの案内が置かれていた。
リトアニアのリネンの店に八女茶が売られていた。
ワルシャワ市内の看板、琥珀の店でカタカナでアンバーと書かれていた。
エストニアの首都タリンの市庁舎前の駐車場。トヨタが三台並んで駐車。日本車はどこでも見かけた。トヨタのタクシーもあった。
最後はヘルシンキ空港内のラーメン屋。空港の中も日本語の案内表示があった。
ヘルシンキへは最短ルートで9時間の飛行、便利な空港である。フィンエアー機内のモニターでは機外に付けられたカメラで外の様子が写される。これを見ていると退屈しない。