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友の会と歩んだ7年

友の会と歩んだ7年

NPO法人黄斑変性友の会

代表世話人 髙田 忍

はじめに

 NPO法人黄斑変性友の会の前身、関西黄斑変性友の会が2015年10月に発足してから、今年で丸七年が過ぎた。私自身の治療経過と友の会とのかかわりに触れながら、この七年の歩みを振り返ってみることにした。

 

異変に気付いたきっかけ

 2014年8月27日、早朝パソコンの電源を入れると、画面の右枠が歪んで見えた。幸運だったのは、二日後の29日に人間ドックの予約を入れていたことだ。眼科診察室の入り口に掲げられた医師の名前のアクリル板も歪んで見えた。若い女性医師田中先生に異変を告げると、翌週水曜日に検査をすることになった。

 検査までの間、週末に車を運転した時、中央の車線が歪んで見えたので、即刻運転を中止した。バスに乗ると、窓から見える電柱も歪んで見えた。

 病院は大阪中之島にある住友病院である。住友グループの会社に勤務していたので、40歳以降、定年後も毎年夏の終わりに、住友病院の人間ドックで検診を受けていた。その当時の眼科部長は五味文先生である。現在は兵庫医科大学の眼科部長をしておられる。

 

診断されるまでの受診の状況

 翌週水曜日、発症から1週間の9月3日、造影剤を入れた眼底検査や光干渉断層計の写真が撮られた。その結果、病名が加齢黄斑変性であると告げられ、その日のうちに注射治療を受けた。今まで白内障や緑内障の病名は聞くことが多く知っていたが、加齢黄斑変性は初めて知る病名であった。

 その日から10日ほどたったころ、神戸理化学研究所がiPS細胞の臨床研究を始めたとのニュースに接し、興味を抱き期待もした。それに先立つ2010年、妻が骨髄異形成症候群という血液の難病にかかり、病床で読んだ新聞でiPS細胞から血小板を作る研究が東大医科学研究所で進められていることを知り、医学研究目的で寄付をしてきたからである。

 

治療・症状の経過と出会い

 発症した2014年には、治療法として定められた通り3回の注射治療を受けた。3回注射のあと、歪みはなくなり、車の運転を再開した。翌年の注射は1回であった。このころ、治療薬はアイリーアであることを知った。

 住友病院の掲示板に貼られた患者会の集いのポスターが目に留まった。世話役は東京の会を主宰していた女性Kさんである。2~3回参加するうちに、関西にも患者会を作るので代表世話人を引きうけないかと打診され、さらに要請を受けた。躊躇することなく承諾した。

 妻の病気を通じて、患者会の存在意義を理解していたからである。妻は2010年、血液の難病骨髄異形性症候群を発症し闘病生活を続けていた。その患者会で、母親が患者という女性と巡り合った。名古屋の病院へセカンドオピニオンを聞きに行った際、名古屋城近くの喫茶店で会った。その時の言葉が深く胸に刻まれていた。「この病気は治りません。生きているうちに楽しい思いをさせてあげて。私は母と温泉に行きました」。医師から聞くことのできない患者ならではの言葉であった。神戸の病院に通院しているとき、診察が早く終わるときはスーパーに立ち寄り買い物をし、遅いときはホテルで神戸の夜景を見ながらフランス料理を食べたこともある。その効果が次第に現れたように思う。医師から「一年後の生存率20%」と、余命宣告された時は、不安と恐怖から半狂乱の精神状態に陥った妻が、心穏やかになり「貴方、まだ若いから再婚してもいいわよ」とまで言うようになった。それから数日後、急に体力が衰えていった。手を握ると弱弱しく握り返してきた。それが最期であった。

 

iPS細胞に望みを抱いて

 妻は、子供が中学校へ通い始めた頃から、スーパーを皮切りに働くようになった。働いて得た給料は銀行に預金をしていた。これを相続することになった。生前の妻の意思を考えて、医学研究目的で東京大学と京都大学に寄付することに決心した。老後の生活資金に充てるよりも、社会貢献ができる。相続税として、国に納付すると、使途が定まらない。

 東京大学からは、毎年感謝の集に招かれ、著名な学者の講演を聞くことができた。京都大学iPS細胞研究所山中教授との記念写真も撮影した。山中教授がノーベル賞を受賞される前のことである。東京大学の安田講堂と京都大学時計台には、他の多くの寄付者と並んで、銘板に二人の名前が刻まれている。

 それから10年が経過した。加齢黄斑変性の臨床研究は進んでいるようだが、実用化の日は明確にはなっていない。過大な期待は抱かないようにしている。

 

友の会を託されて

 東京の世話役Kさんからの要請にこたえて、代表世話人を引きうけることにした。妻の病気を通して知った患者ならではの体験がある。その情報を患者同士が共有することの必要性を感じていたからである。もっとも、人生七十歳を過ぎると働く場所は限られてくる。定年後数年の間、臨時講師をした大学の仕事をしたが、打ち切られていた。自分を活かすことができるのは病気を通して他にないと思ったことも、もう一つの動機であった。

 2015年10月、関西を中心に20数名で発足した。最初の会合は住友病院の講堂で開催した。五味文先生から病気に関する基本的な話をしていただいた。

 

その後の治療経過、黄斑下出血発症

 2016年には注射は一度も受けなかった。ところが、2017年になると注射回数が5回に増えた。治療費も高い。2018年5月ころ、病院で検査を受けたとき、医師にどのようなサプリメントがよいかと尋ねた。それまでは、人工的なものは極力体内に入れず、自然の食品を摂取するという考えでいた。医師が勧めたのは、ボシュロム社のオキュバイト50+である。服用を始めてから、注射の回数は年1回程度に収まっている。左目を閉じ、右目だけで見ると中央部がかすんで見える。最近は白内障が進行中である。

 今年6月黄斑下出血を発症し、1週間の入院治療を受けた。眼内にガスを注射する治療である。ガスは軽い。出血している目の奥にガスを行きわたらせるためには、うつぶせになる必要がある。退院後も1週間はこの姿勢を取り続けた。昼夜を問わずのうつぶせの生活は難行苦行であった。一か月もすると、ガスは消え、目から霞が消えた。

 幸いなことに、左目は問題ない。左目が発症しないよう、予防のためサプリメントの服用を続けている。一昨年、NHK「チョイス」から取材を受けた際、サプリメントのサンプルを示して、予防効果があると説明した。現在も左目に異常はない。車の運転もできる状態である。早期発見早期治療のおかげであると思う。

 

診断時に知りたかったこと

 多くの説明書には、加齢黄斑変性という言葉の前に枕詞のように「失明の怖れ」をつける。マスメディアが不安を増幅させる役割を果たしている。例えば、iPS細胞の臨床研究を伝える記事にも、必ずこの言葉が修飾語になる。実際に失明するのか。失明とはどのような状態をいうのか。真っ暗闇の世界なのか。

 失明するのであれば、見えるうちに美しいものを見ておこう。開き直りである。「春は桜、秋には紅葉」のキャッチフレーズで旅行の回数を増やしたことがある。日本全国だけでなく、世界各地を旅行した。

 旅をすると不思議な出会いがある。2018年春、西洋文明を日本に伝えた国、ポルトガルに旅行した時のことである。3日目、13世紀にできたコインブラ大学を見学した後、ホテルにチェックインしようとした時、後ろから名前を呼ぶ女性がいた。三つのヒントになるキーワードを言われたが、すぐには思い出せなかった。毎年、年賀状の交換をしている間柄であるにもかかわらずであった。翌朝、その6年前に若狭へのバス旅行で隣の席に座った女性医師、Kさんであることをようやく思い出した。

 妻が亡くなって間もないころで、寂しさを紛らわすため、一日バス旅行に参加していた時のことである。京都駅から出発間際に乗り込んできて、隣同士で座り、昔なじみのように話が弾んだ。

 最近廃院された。医師会の会計監査の役をされていたことを知り、現在友の会の監事として陰ながら支えていただいている。

 

これから治療を受ける方に伝えたいこと

 早期発見早期治療がいかに重要であるかである。目に限らず、体に異変を感じたら、放置せずに専門の医師の診察を受けることである。滲出型の治療法は現在のところ、抗VEGF薬の注射以外にはない。目に注射と聞くと不安を覚えるが、その必要はない。麻酔もするので痛みはなく、一瞬のうちに終わる。

 注射に不安を覚える全国の患者に安心感を与えるため、住友病院の医師に依頼し、手術の手順を撮影した。写真をホームページに掲載したところ、これまで多数の方が閲覧している。

 このホームページを維持し、管理してくれているのは、大阪市内でメガネ店を営む星野さんである。時には、店の営業より、会の活動を優先されることがある。もちろん無償である。頭が下がるばかりである。

 最近は、ノバルティス社のベオビュ、中外製薬のバビースモはじめ新しい治療薬や萎縮型の再生医療の研究が進んでいる。あきらめないで希望を持ってほしい。とはいえ、iPS細胞の臨床研究は始まって十数年経つが、実用化されるとのニュースは流れてこない。あと十数年はかかると思われる。過大な期待は抱かないで、緑黄色野菜やサプリメントで予防に努めることが大切である。そして、多くの眼科医が言っているように、喫煙は即刻止めることである。

 

充実感を覚える日々

 七年前に思った通り、することが沢山あり充実した日々を送っている。医療情報や会員の体験を会報誌「友の会ニュース」に掲載することに仕事の充実感を覚えている。この会報誌や交流会を通じて言っていることがある。病気は自分で治すもの、医師は手助けしてくれるだけである。そのためには、医師との信頼関係を築いて、自分自身が努力することが大切である。このことは、自ら入院中に体験したうつ伏せ治療で実感している。

 この7年で多くの会員に出会った。年二回の定例会の講演だけではなく、見学会、音楽会、食事会、歩こう会、茶話会、最近は温泉の会を始めた。病気について学ぶだけではなく、楽しむことも取り入れてきた。

 これら多岐にわたる活動を通じて36年半に及ぶ会社生活で知り合った人とは、異なる人生を歩んできた多くの人との出会いがあった。新たに学ぶことも多い。歩こう会に参加した女性会員が語った言葉が「歩けば目を使う、目を使えば脳を使う。これが健康の秘訣です」が今でも耳に残っている。「僕が君に目になろう」と優しく語りかけた男性がいる。「目の病気は命に関わることはない」と言われた女性は、励ましの言葉と捉えて、ピアノを始めた。定例会ではピアノ演奏と共に美しい声を聴かせてくれる。

 反省していることが一つある。iPS細胞をはじめとする先進医療に期待するあまり、前のめりになったことである。見学場所として京大iPS細胞研究所と神戸理化学研究所を選んだ。神戸では、この研究の先頭に立っているT先生の話を聞き感激したことがある。また、理化学研究所と大阪大学が臨床研究の患者募集をしているという情報を会員に流したことがある。この時、東京の世話役Kさんから、「患者会の役割を逸脱していないか」との指摘を受けたこともある。確かに、ブローカーのような印象を与えたかもしれない。内心、募集に応じた会員が体験談を書いてくれることを期待していたことは否定できない。過大な期待や幻想を抱く結果になってはいけないと反省している。

 発足から7年間が過ぎた。会員は20数名から100名近くになった。当初は関西中心の会であったが、ホームページの充実とともに、北は北海道から南は沖縄まで広がった。そこで、当初の任意団体を発展させNPO法人とし、名称から関西を外しNPO法人黄斑変性友の会に改称した。

 また、全国規模での会員相互の親睦を図るため、交流会も対面だけではなくオンラインを取り入れた。毎月一回Zoomによるオンライン交流会を始めた。またLINEのグループを開設した。ただ、パソコンやスマホなど電子機器を使えない会員が四割もいるので、紙媒体による情報共有に力を入れている。

 紙媒体として、最も力を注いできたことは「私の体験談」を冊子にしたことである。七年間に第4集まで発行した。会員の半数近くがそれぞれの体験を語った。自ら筆を執った人もあれば口述筆記したものもある。これらは国立国会図書館と大阪府立中央図書館に寄贈した。社会的資産として、永久に保存されることになる。

 

さいごに

 会社勤めをしたためか、数字のことを気にする癖が抜けきらない。これからは、会員数の増加を追い求めるのではなく、内容の充実に力を入れていこうと考えている。そして、患者会は会員一人一人ができる範囲で、会の活動に加わることを願っている。コンビニの店主と客の関係ではなく、誰もが店主の気持ちになって参画できるような会に変えていきたいと思う。

(2022年10月4日)


 

 

 

会員推移と構成

会員推移と構成

2020年01月30日現在

推移と構成_ページ_1

推移と構成

入会者数と在籍数

入会者数と在籍数

都府県別

都道府県別 会員数

地図表示

地図表示

年齢・性別

年齢・性別

病名別

病名別

3回目のワクチン接種

3回目のワクチン接種

1.予約

西宮市から3回目の接種券が送られて来たのは1月26日である。接種券には1回目と2回目の接種日とクリニックの記録と接種券番号が記載されていた。他に健康状態を記入する予診票が入っていた。

翌、27日スマホから予約することにした。予約するためには本人登録が必要である。本人登録は自治体番号と接種券番号、パスワードを入力する。自治体番号は接種券にかかれている。パスワードは西暦の生年月日を8桁である。19400101のように入れる。

兵庫県の大規模接種会場は西宮市と姫路市に置かれ、2月5から接種を受けることができる。自宅に近い西宮を選び2月7日に予約することにした。15分毎に予約枠が決められていたので、10時30分から45分を選んだ。3回目の接種がモデルナであるため、副反応を心配する人が多いためか、予約枠には十分余裕があった。

1回目の予約と比べ雲泥の差である。自宅近くのクリニックに電話したが話し中で、ようやく繋がったと思うと「かかりつけ医ではない」と断られた。これに比べると、拍子抜けするくらいにアッという間に予約ができた。

 

2.接種

2月7日、予約時間の20分前である10時10分に会場に着いた。会場は阪急西宮北口から徒歩3分程度の便利なところにある。会場のビルに入ると、先ず1階の待機室に通された。ほどなくして、10時30分組は2階に行くようにと促された。2階には椅子が沢山整然と並べられていた。予約時間ごとに区分して座るようになっていた。

待つ間、大きく「事務」と書かれた札を胸につけた職員が予診票に記入漏れがないかチェックをした。体温を記入していなかったので、額に当てる体温計で測ってくれた。10時30分少し前に係員に促され接種に向かった。接種の前に、パソコンを操作する係員に予約券を提示した。この時、身分証明の提示を求められ、運転免許証を見せた。予診票の住所と照合していた。また、パソコンから予約時間との照合をしているようでもあった。

チェックが終わると、接種室の前の椅子に座った。2階の接種室は5室あった。他に3階にも設けられていたが何室あるか確認はしていない。10時40分前後に第5室に入った。部屋には医師と接種をする人、呼び込みをする人の3人がいた。

医師から、予診票に記載した服用している薬について質問された。「コレステロール」の薬というと「血液サラサラの薬」でないことが確認され、接種が認められた。

冬の寒い時期であるため、沢山着込んでいた。一番下に半そでの下着を着ていたのは正解であったが、ジャンパーの下にボタンの多いシャツを着ていた。ボタンを外すのに時間がかかり、接種が終わってボタンをはめるのにも時間がかかった。接種は10時44分に終了した。係員から接種終了時間と待機終了時間を書いた用紙を渡された。今夜は酒を控えるようにとの注意を受けた。

部屋を出ると、椅子が並べられていた。副反応がないかを見るため15分間待機した。10時59分に待機が終わり、予診票など書類を係員に手渡した。接種済証を受け取り会場を出た。

 

3.接種を終わって

帰宅後、体温を測ると36度8分であった。起床時の36度1分に比べると、やや高めである。

予約した時には十分予約枠があったが、実際に接種会場に来てみると、大勢の人が集まってきた。10時30分から15分間の予約組は正確な人数はわからないが7~80名はいたと思う。午前中だけでも数百名が接種を受けたと推定する。この大勢の人を係員がてきぱきと案内し、整然と接種が行われ時間通りに終わったことに感心している。 (髙田 忍)

生着が可能な網膜組織をES細胞から作製する技術

理想に近い生着が可能な網膜組織をES細胞から作製する技術、理研などが開発

治療方法がないとされてきた萎縮型黄斑変性症など失った視力を回復できる可能性の技術(以前チラッと高橋政代先生から伺っていた)が確実に実用化へ進んだように感じられます。

https://news.mynavi.jp/techplus/article/20220124-2256052/

 

星野龍一

薬ののみ方

薬ののみ方(窪田純子先生の第10回定例会講演から)

 

1.医師は一日にのむ量を決める。原則としていつのんでもかまわない。

 

2.食事の時にのむと決めるのはのみ忘れを防ぐため。朝食後のみ忘れたら昼食後にのめばよい。

 

3.夕食後が少ないのは、酒を吞んだりすることがあるので、のみ忘れを防ぐため

 

4.血圧の絶食検査時も服用しておく。大事なことは血糖降下薬はのまない。低血糖発作の危険がある。

 

5.脂質異常症(コレステロール)に対する薬は、夜に脂質合成されるので夕食後に服用する。油脂類は昼に食べ、夕食時は控える。

 

6.薬局は一つにまとめること