アメリカ人の親切
ワシントンの桜
アメリカ生活2年目、1994年4月のことであった。バージニア州にある会社と技術提携の話を進めていた。その会社はWinchesterという南北戦争の激戦地にあった。北軍と南軍が毎日のように入れ替わった所である。首都ワシントンから車で北西に約80キロメートルの所にある。その会社で打ち合わせのために金曜日に訪問することにした。
週末はワシントンで過ごし、ポトマック川の桜を撮る計画である。そのため少しばかり高級なカメラを買った。ワシントンの空港に着いたのはお昼時であった。軽食の店の前でカメラの入ったショルダーバッグを椅子の上に置き、何を食べようかとショーウィンドーのメニュウを見ていた。一瞬の出来事だった。気の付いた時にはショルダーバッグが消えていた。ワシントンはアメリカの首都である。世界の首都といってもよい。世界で最も安全な都市と思い込んでいた。置き引きに遭うとは夢にも思わなかった。
訪問先に着くと、真っ先に被害に遭ったことを話した。それを聞いた社長が「アメリカ人として大変申し訳ないことをした」と犯人でもないのに謝ってくれた。その上、打合せが終わり帰る時に、「お詫びのしるしに」と新品のカメラを渡してくれた。
写真はそのカメラで撮ったワシントンの桜である。やや色あせているが、フィルム写真だから仕方がない。ぼくにとっては貴重な写真で、額に入れて書斎に飾っている。これを見ると、いつもアメリカ人の親切を思い出す。
Wonderful
デトロイトに赴任して3年目、1995年4月阪神淡路大地震の年のことである。自動車用電子部品を製造する工場の予定地ミネソタ州に出張する日々が続いた。ミネソタ州はカナダと接し、ミシシッピ河が流れ出す源でもある。古い世代であれば「ミネソタの卵売り」という歌謡曲で知られた馴染みのある州である。
週末を利用してカナダ国境までレンタかカーでドライブすることを思い立った。土曜日の朝、州都セントポールを出発し途中鉱山跡に立ち寄り北上した。その夜は国境近くの湖畔のホテルに泊まった。
翌日曜日、国境沿いに針葉樹林の森の中を東へ走り南下することにした。国土の広いアメリカはどこまでも同じ景色が続く。やがて薄暗い森の中を抜けると、一面菜の花畑が広がった。そして、その前方に突然湖が現れた。五大湖の一つスペリオル湖である。向こう岸は見えない。まるで海のようであった。景色の単調な森を走り続けてきた者にとっては、水のある風景は心を和ませてくれる。この光景を是非写真に撮っておきたい。思い出として残しておきたい。車を停めるとカメラを持って飛び出した。ワシントンの桜を写したカメラである。何枚かフィルムに収めた後、車に戻った。ドアが開かない。キーを差し込んだままロックしてしまったのだ。窓ガラスを壊すわけにもいかない。携帯電話も中に置いたままで、知人に連絡する術もない。半ばパニック状態に陥った。
治安の悪いデトロイトでは、車が故障し路上に停止した場合、車外に出てはいけないというのが鉄則だ。強盗の被害に遇う危険が高まる。暫くの間、車の陰で身を隠していた。しかし身を隠したところで事態は解決しない。行動が先だ。人の助けを借りる他には解決する道はないと意を決した。
車の陰から恐る恐る出て、手を振って助けを求める合図を送ることにした。片田舎のことで、通る自動車はそれほど多くない。気付かないのか、トラブルに巻き込まれたくないのか、手を振っても通り過ぎて行く。やがて通り過ぎて行った車が引き返してきて停まってくれた。事情を話すと、次の町で警察に連絡すると言ってくれた。救われた気持ちになった。パトカー(英語ではpolice car)を待つ間も、手を振っていないのに、何台かの車が止まり「May I help you?」と聞いてくれた。
ミネソタにはノルウェーやスウェーデンなど北欧から移り住んだ人が多い。湖や森が多く気候風土が似ているため住むのに適したに違いない。寒い土地で農業や林業で暮らす人々は困っている人を見かけた時は、自然と助ける習慣が身に着いたのではないかと思う。
ほどなくパトカーが2台も到着した。薄い鉄板をガラスとドアの隙間に差し込んで開けてくれた。車を停めて助けてくれた人や警察官に何度もお礼を言った。翌日、地元の新聞社に感謝の気持ちを認めた手紙を出した。
この地方の人々は日常会話で「Thank you」というと、{Wonderful}の言葉で返す。何と素晴らしい表現ではないか。言葉だけではない。この地の人々の人情もWonderfulである。
その時写した写真である。日本であればこのような風景はどこにでも見られる。陸ばかりのアメリカでは、湖や川の水のある風景を見るとホッとする。4月も終わりに近いというのに湖はまだ氷で覆われていた。ワシントンの桜の写真とともにぼくにとっては大切な写真である。