津軽海峡春景色

津軽海峡春景色


石川さゆりの演歌「津軽海峡冬景色」に出て来る竜飛岬を是非見たいと思い、5月13日から4日間、青森、秋田の三大半島を巡る旅行に参加した。青森の太平洋側が下北半島、日本海側が津軽半島、南に下って秋田には男鹿半島がある。津軽海峡は青森と北海道の間の海峡で、潮は日本海側から太平洋側に向かって流れているが、月に一回は逆に流れることがあるそうだ。

津軽海峡冬景色の歌碑

津軽海峡冬景色の歌碑

1.岬
下北半島、本州最北端にある岬が大間崎である。本マグロのセリで全国的に知られている。灯台の向こうにうっすらと見えるのは北海道函館である。

 

大間崎灯台

大間崎灯台

本州最北端の碑

本州最北端の碑

 

津軽半島の最北端にあるのが竜飛岬である。北海道新幹線は竜飛岬の下を通っている。断崖絶壁の岬である。

竜飛岬

竜飛岬



入道崎は男鹿半島の西端にあり北緯40度の線が走っている。北緯40度には北京やスペインのマドリードがある。

大間崎       

大間崎

北緯40度

北緯40度

              

2.あの世
恐山
恐山は下北半島の中央部にある。赤い橋は三途の川にかかった橋で、左がこの世である。恐山の歴史は古く1200年前、比叡山延暦寺の僧が開山した寺である。現在は、福井永平寺の傘下にある。

三途の川

三途の川

恐山山門

恐山山門


火山ガスが噴出する岩肌の一帯が地獄、湖を取り巻く白砂の浜が極楽とされ、「人は死ねば山へ行く」と信じられてきた。テレビで死者との会話の仲立ちをするイタコという老女を見たことがあるが、常駐しているわけではない。

地獄

地獄

極楽浄土

極楽浄土

 

                

仏ケ浦
秘境仏ケ浦は下北半島の西河岸にある。岩々には仏にちなんだ名がつけられ、極楽浄土を思わせる世界が広がっている。パンフレットによると、かつて海底火山活動が盛んな時期があり、噴出物が緑色凝灰岩の層を形成したという。

仏ヶ浦

仏ヶ浦




3.遅い春
大阪空港から青森空港へは日本海沿いに北上した。山形県と秋田県境にある鳥海山は雪を被っていた。

鳥海山

鳥海山



神奈川県の横浜と同じ地名の町には菜の花祭りが行われていた。
桜はソメイヨシノを見かけることは少なく、家の庭に咲いた八重桜が丁度満開の見ごろを迎えていた。

菜の花畑

菜の花畑

八重桜

八重桜


津軽半島を南下する山道から見た新緑の風景はすがすがしかった。



秋田県にはかつて、琵琶湖に次いで大きな湖、八郎潟があった。昭和30年代から干拓が行われ水田に代わった。田植えが始まったばかりで、青空が水面に映って日本の春を思わせた。12キロに及ぶ直線道路の両側には菜の花が咲いていた。

八郎潟の水田

八郎潟の水田

12キロの直線道路

12キロの直線道路

寒風山から見た八郎潟水田

寒風山から見た八郎潟水田



4.空の見張り
青森や秋田は日本海を挟んで外国と接している。ミサイルをキャッチするレーダーが設置されていた。
下は下北半島釜臥山のレーダーである。恐山の山門越しに望遠レンズで撮影した。

レーダーサイト

レーダーサイト



写真は男鹿半島に置かれたレーダーのある山である。

5.鉄道、道路、船
この旅行での移動手段は、鉄道、バスと船であった。
下北半島には戦前、最北端の大間まで鉄道を敷く計画があった。一部では駅や鉄橋が建設されたが戦後資金難で見送られた。下風呂温泉の幻の駅である。   

幻の駅

幻の駅



北海道新幹線の本州側最北の駅は奥津軽いまべつ駅という。ここには在来線の駅と、道の駅がある。いずれも駅名は異なるそうだ。



五能線の鰺ヶ沢から深浦まで約一時間日本海沿いに走った。海岸沿いには岩があり、車窓から見た風景は飽きることがなかった。難読地名の駅があった。馬三つで「とどろき」と読む。普通は車が三つの「轟」だが、理由はよくわからない。

五能線沿いの日本海

五能線沿いの日本海

こんな字がある?

こんな字がある?

道路では車が通れない階段の国道339号が竜飛岬にあった。役人が、現地を見ないで机の上で国道を決めたらしい。秋田県内には「朴瀬」と書いて「ほのきせ」という難読地名があった。

車の通れない階段国道

車の通れない階段国道

これも難読地名?

これも難読地名?

下北半島から津軽半島へはフェリーで渡った。約一時間の途中、イルカが近寄ってくるのが見えた。船室の入り口には「二等旅客室」と書かれていた。かつて国鉄時代には一等車、二等車の区別があったが、いつの頃からか一等車はグリーン車と呼ばれるようになった。何となく違和感を覚えた。



6.祭りと伝統
青森の祭りといえば「ねぶた」である。写真は道の駅に展示されていた大湊の海上自衛隊の作品である。

大湊の海上自衛隊の作品

大湊の海上自衛隊の作品


毎年、年末になると、家にやってくるなまはげを見た子供が泣き叫ぶ姿が放映される。なまはげは男鹿半島に伝わる伝統行事である。角があるが鬼ではなく、神とされている。伝承館があり30分おきにその様子が演じられていた。主人との間に問答が交わされる。パンフレットには問答の例として「親の面倒見ない悪い嫁いねが(いないか)」と書かれているが、果たして今の時代に通用するかと思う。ますます若い人が地方から離れていくのではないかと危惧しつつ旅が終わった。

なまはげ

なまはげ


(髙田 忍 2019,05,18)

写真で辿る「おくのほそ道」

写真で辿る「おくのほそ道」

髙田 忍

 

今年の2月、今冬一番の強烈な寒波が到来するという日に宮城の松島と山形の蔵王を巡るツアーに参加した。その中に山寺という普通名詞のような寺が含まれていた。山門の中に入ると驚いたことに松尾芭蕉の有名な「閑けさや岩にしみいる蝉の声」の句碑があった。

 

近くに芭蕉記念館があり、館内に入ると、芭蕉が歩いた奥の細道の地図が掲げられていた。地図をよく見ると、かつて訪ねたことのある地と重なり合う。そこで、写真で奥の細道を辿ることにした。

江戸

江戸

芭蕉は江戸の上野・谷中に庵を構えていた。

「去年の秋江上の破屋に蜘蛛の古巣をはらひて」旅に出た。

初めて東京という大都会を見たのは1956年春(昭和31年)中学校の修学旅行の時であった。大津から汽車に乗り熱海で一泊し、江の島、鎌倉の大仏と横浜の港を巡り、東京に着いた。国会議事堂を見学し、皇居の二重橋前で記念写真を撮った。

それから60年後再び皇居を訪れた。この時は、二重橋の裏側から丸の内のビルを撮影した。

千住

千住

往春や鳥啼魚の目は泪

 

芭蕉は旅立ちに当たり、奥の細道に「むつましきかぎりは宵より集ひて、舟に乗りて送る。千じゅと云ふ所にて船をあがれば」と書いている。

浅草付近から船に乗り隅田川を上ったのであろうか。それとも、荒川かは奥の細道からは判断できない。

千住付近を初めて通ったのは,日光へ新婚旅行に行く途中である。職場の上司から学生時代の友人の長女を紹介された。何度かデートを重ね、半年後の1967年11月19日大阪のホテルで結婚式を挙げた。行先は行ったことのない日光を選んだ。大阪空港から羽田まで初めて飛行機に乗った。空港へは両家の両親が見送りに来てくれる時代であった。東京モノレールはオリンピックの年に開通していた。浜松町から上野までは山手線、地下鉄銀座線で浅草へ、さらに東武電車に乗り換え日光に向かった。キャリーカートのような便利なものはなく重いスーツケースを手に持った。

2016年5月、全国赤十字大会に出席する予定でJALの格安チケットを予約していた。ところが2月に発生した熊本地震により大会が中止になった。チケットをキャンセルするよりも初めての鬼怒川温泉へ行くことに変更した。

東武電車日光行き特急に乗り浅草駅を発車した直後に撮影した。スカイツリーが背後に見える。芭蕉が千住へ行くために舟に乗ったのはこのあたりではないかと思いつつ川を渡った。

 

日光 

あらたうと青葉若葉の日の光

 

日光へは三度も来ている。最初は新婚旅行の時で、二度目は東京勤務時代に親子三人で、そして昨年ツアーに参加し三度目になった。

 

新婚旅行の時は中禅寺湖畔の宿に泊まり、翌日バスで戦場ヶ原まで足を延ばした。華厳の滝や東照宮を見た後東京に戻った。学生時代の友人O君と3人で品川のプリンスホテルで食事をした。あくる日4年間学んだ大学も案内し帰阪した。

 

まだ駆け出しの会社員でカメラを買う余裕はなかった。この写真は絵ハガキで50年以上たっても色あせていない。ハガキ7円の時代である。

 

芭蕉が東照宮へ来たのか定かではない。奥の細道では二荒山と書かれている。二荒山は男体山のことである。

二荒山

二荒山

 

暫時は滝に籠るや夏の初

奥の細道には「廿余丁山を登って滝有。岩洞の頂より飛流して百尺(はくせき)、千岩の碧潭に落ちたり。」とある。

華厳の滝

華厳の滝

 

 

那須 

野を横に馬牽むけよほとヽぎす

田一枚植て立去る柳かな

 

東京下町生まれ二人の友人の誘いで那須岳に登ったのは大学二年生の時である。このためにリュックと登山靴を新たに購入した。親からの仕送りとアルバイト、奨学資金で暮らす貧乏学生にとっては大きな出費であった。甲子温泉の山小屋というものに泊まるのは初めての経験であった。その後、自分の足でのぼる登山とは縁遠くなった。毎日残業の会社では、登山が出来る時間はなく、また年齢とともに体力も衰えた。この時の登山靴は足に合わなくなり捨てたが、リュックはまだ残っている。

2015年4月18日那須のリゾートホテルに宿泊し、翌日は三春の滝桜を見に行った。写真はホテルから見た那須岳である。水芭蕉などが芽を出していた。

那須岳

那須岳

 

 

福島 

早苗とる手もとや昔しのぶ摺

筏も太刀も五月にかざれ帋幟

 

昭和39年オリンピックの年を迎え、日本は高度経済成長の時代に差し掛かろうとしていた。労働力が必要になり、地方とりわけ東北の中学生が大挙して東京へ働きに出て来た。終着駅の上野は中学生であふれ、これを集団就職という言葉で表現した。その前年、社会学科に進学していた。社会学といっても焦点の定まらない学問で、頭に「労働」とか「農村」とかを付ければ何でも社会学になる。その中に、社会調査という科目があった。毎年5月に行われる大学祭で、4年生有志が共同で一つのレポートを仕上げることになった。テーマは集団就職を選んだ。但し、もったいぶって小難しく「都市流入若年労働者」と名づけ、社会調査をすることになった。

3年の終り頃から準備が始まる。多くの中学生を送り出す福島市郊外の中学校へ意識調査に行った。福島駅からローカル線で西の方へ向かったように思う。具体的な地名は勿論のこと、調査の内容は今ではもう思い出すことができない。

この時、福島大学の学生寮に泊めてもらった。大学の寮の間でお互いに宿泊を認め合うような慣習があったようだ。3月とはいえ東北は寒くて、よく眠れなかったことだけは思い出す。

その当時の学生はカメラを持っていない。写真もない。最近訪れた福島の写真に替える。

       

三春の滝桜

三春の滝桜

 

              

只見湖

只見湖

 

名取

笠島はいづこ五月のぬかり道

 

今回の松島・蔵王の旅を終え仙台空港へ向かう途中通過した。車窓から撮った写真は名取川である。

名取川

名取川

 

 

 

仙台

あやめ草足に結ばん草鞋の

 

ぼくにとって仙台は東北旅行の時に空港を利用するだけの通過都市である。東北一の大都市でありながら市内に入ったことは一度もない。空港の写真だけがある。8年前の津波で松が流され空港も大きな被害を受けた。

仙台空港からみた風景:松林の先に海

仙台空港からみた風景:松林の先に海

 

 

松島

 

芭蕉は松島では句を作っていない。旅立ちの文を抜粋する。

「白川の関こえんと、そゞろ神の物につきて心をくるはせ、道祖神のまねきにあひて取るもの手につかず、もヽ引の破れをつゞり、笠の緒付かえて、三里に灸すゆるより、松島の月先心にかヽりて、住むる方は人に譲り」

松島の光景を見るのが大きな目的であったようだ。奥の細道の後の方でも「松島」と「象・潟」が旅の目的として登場する。松島を次のように表現している。

「抑ことふりにたれど、松島は扶桑第一の好風にして、凡洞庭・西湖を恥ず」

から始めて、湾内の光景を描写している。その部分を記した碑がある。

 

松島には人の住む4つの島を含めて260の島がある。その一部の写真である。

 

 

松島や鶴に身を枯れほとヽぎす  曾良

 

瑞巌寺

芭蕉は松島の後、近くの瑞巌寺を詣でている。句はなく文を残している。引用する。

 

十一日、瑞巌寺に詣。当寺三十二世の昔、真壁の平四郎出家して入唐、帰朝の後開山す。其後に、雲居禅師の徳化に依りて、七堂の甍改まりて、紺碧荘厳光を輝、仏土成就の大伽藍とはなれりける。彼見仏聖の寺はいづくにやとしたはる。

 

地元の観光案内書によれば,瑞巌寺は天長5年(828年)慈覚大師の創建と伝えられ奥州随一の禅寺で仙台藩主伊達政宗の菩提寺である。伊達政宗は独眼竜政宗ともいわれる。バスガイドは天然痘に罹ったと説明した。映画では大柄の俳優が演じているが実際は小柄であったそうだ。

 

平泉

夏草や兵どもが夢の跡

五月雨を降りのこしてや光堂

 

2016年4月東北の桜を見るツアーには、最終日に中尊寺が含まれていた。日記にはただ一行「中尊寺金堂を見学して仙台空港から戻った」と記されているだけである。写真も撮っていない。このツアーに参加した主な目的は弘前城の桜と太宰治の生誕地金木町近くの枝垂桜を見ることであった。写真がないのはバッテリーが切れたためではないかと思う。

 

尾花沢

涼しさを我宿にしてねまる也

這出よかひやが下のひきの声

まゆはきを俤にして紅花の花

 

尾花沢の銀山温泉は今回の蔵王、松島のツアーの二日目に組み込まれていた。地元の観光案内には「1741年に温泉地として盛んになる」と記されている。芭蕉が銀山温泉を訪れたかは定かでないが、この記述からすると芭蕉の時代には温泉はなかったと思われる。かつて銀山があったことから銀山温泉と名づけられた。昔の風情のある温泉街で観光案内には「大正ロマンあふれる」と宣伝している。この宣伝文句から、もう一度来るとすれば紅葉の美しい秋に星空が見える時期が一番いいのではないかと思う。冬の季節にあえて泊まるのはいかにも侘しい。冬の雪景色が珍しい中国人観光客で賑わい写真撮影に余念がなかった。

銀山温泉

銀山温泉

銀山温泉は間欠泉が出る温泉だという。短時間で各地を駆け足で回るツアーでは、蒸気が噴き出す瞬間まで待つ余裕はない。かつて、アメリカで見たイエローストーンの間歇泉は巨大であった。

 

山寺(立石寺)

閑かさや岩にしみ入蝉の声

 

この句は高校時代に覚えた句で、芭蕉の句の中では最もなじみのある句である。

山寺に来て、頭の中で描いていた情景と実際に見る景色とは大きく違っていた。芭蕉は奥の細道を歩く時に蝉の声を聞いたのであるから、森の中の平坦な道を歩く姿を思い描いていた。小川が流れ、意識するほどもない程度の岩がある。森の中の木にとまった蝉が静かに鳴き始め、辺りにこだまする。その音が岩に溶け込んでいく。暑い夏も涼しく感じるような句であると。

実際に山寺に来てみると、そこにある岩は思い描いたよりはるかに大きかった。むき出しの岩を見ると、静けさとは程遠いうるさいほどの蝉の声がしたのではなかろうか。山寺ははるか上に建っていた。

実は、この山寺には2015年8月出羽三山に来た時に立ち寄っていることが分かった。まったく記憶から抜けていた。この時、他の人たち山寺のある所まで登って行ったが、その高さに気おくれがして、下で待っていた。もしお寺のある所まで登っていれば、八月の終わりではあったが、夏の最後の蝉の声が聞こえたのかもしれない。

 

2015年8月撮影    

2015年8月撮影

        

2019年2月撮影

2019年2月撮影

岩

 

 

 

大石田 

五月雨をあつめて早し最上川

 

大石田は山寺から尾花沢(銀山温泉)に向かう際に通過しただけの所である。芭蕉の通ったルートと反対とは反対であった。東北は幾度も旅行地に選んでいるが、残念ながらこれが最上川だという記憶はない。

最上川は富士川と九州の球磨川と並んで三大急流のひとつといわれている。写真は最上川に替えて富士川の急流下りである。

 

富士川急流下り

富士川急流下り

 

出羽三山

 

2015年8月末、3泊4日で猪苗代湖、裏磐梯など福島県、出羽三山など山形県を巡る旅に参加した。サンダーバードと開通したばかりの北陸新幹線を乗り継いで上越妙高駅でバスに乗った。三日目に出羽三山を訪れた。

 

羽黒

有難や雪をかほらす南谷

涼しさやほの三日月の羽黒山

 

羽黒山には見上げるほど高い五重塔があった。芭蕉は「有難や」で始まる句に続いて、地名の由来を紹介している。

延喜式に「羽州里山の神社」と有。書写。「黒」の字を「里山」となせるにや。羽州黒山を中略して羽黒山と云にや。出羽といへるは、「鳥の毛羽を此国の貢に献る」と風土記に侍るとやらん。月山、湯殿を合て三山とす。

五重塔

五重塔

月山

雪の山幾つ崩て月の山

 

ハイキングコースから見た鳥海山である。

鳥海山

鳥海山

 

 

湯殿山 

語られぬ湯殿にぬらす袂かな

 

神社の中は撮影禁止で写真はない。神社の中に滝が流れていて裸足になって歩いた記憶がある。身を清める儀式のひとつであったようだ。写真の山が湯殿山かどうか確信はない。この写真は写りが悪いが。良く見ると赤い鳥居が写っているから間違いない。湯殿山に向かうバスから撮影したものと思う。

 

酒田

あつみ山や吹浦かけて夕すゞみ

暑き日を海にいれたり最上川

 

出羽三山を訪れた日は温海温泉に泊まった。翌日、鳥海山に向かう途中酒田を通過した。再び、上越妙高へ戻るときにも通過した。

写真は鳥海山から酒田方面を撮影したものではないかと思う。前後の写真から間違いない。

 

               

鳥海山から酒田方面を望む

鳥海山から酒田方面を望む

 

二つ目の句に登場する最上川は酒田を経由して鳥海山に向かう途中に渡っている。一瞬のことだし、写真もなければ記憶にもない。

 

 

象潟

象潟や雨に西施がねぶの花

汐越や鶴はぎぬれて海涼し

鳥海山から望む

鳥海山から望む

写真は鳥海山5合目から象潟方面を撮影したものである。象潟は秋田県「にかほ市」にある。「にかほ」は漢字で仁賀保と書く。ぼくの旧姓仁賀(にが)を含む地名が秋田県にあることは、地理の時間に気付いていた。どのような土地か興味を抱き続けてきた。とはいえ、奥の細道の象潟に関係するとはつゆ知らずにいた。鳥海山から見下ろすと随分景色のいい所であった。

仁賀は全国でも数少ない名字である。琵琶湖の西岸、白髭神社を挟んで南と北にある二つの在所、打下(うちおろし)と鵜川(うかわ)にしか存在しないとされている。

子供の頃、父は明治になって百姓も名字が許されたと教えてくれた。仁賀の名字は、昔この地を治めた戦国武将、仁賀五郎左衛門からもらったのだという。この武将の名は溝口譲二監督の映画「雨月物語」にも出て来るともいう。そういわれると信じるしかない。

父が亡くなった後に、「雨月物語」が大阪梅田の映画館で上映されていることを知り確かめにいった。舞台は賤ケ岳の合戦があった戦国時代の近江である。たしかに二回も「にが」の名を耳にした。

目でも確認しておこうと、キネマ旬報社の映画のシナリオをアマゾンから取りよせた。ところが、仁賀の文字はなく、あったのは丹羽であった。丹羽五郎左衛門のことである。丹羽長秀五郎左衛門は信長に仕えた実在の人物である。戦国の時代に大溝城を治めたという史実がある。キネマ旬報は昭和31年12月10日の発行で150円であった。

 

それでは、この名字は一体どこから来たのか。興味がふくらむ。インターネットで調べると広島県の三次市とNHK朝ドラ「マッサン」の舞台になった竹原市にその地名の在所があることが分かった。仁賀小学校が三次市にも竹原市にもある。

2014年7月、早速現地を訪ねることにした。三次市では図書館に立ち寄り、郷土史のような本を見せてもらったが、地名以外には何もなかった名字はない。竹原市では郷土史研究家の方にお会いした。「マッサン」の造り酒屋など市内の観光案内をしていただいた後、仁賀という在所にある延命寺というお寺に案内していただいた。女性住職の話によると、昔仁賀藤右衛門という人がいた記録があるという。しかし、現在仁賀姓を名乗ってといういる人はいない。念のため電話帳を調べたがなかった。

もしかすると、戦国に時代に山陽道を通って近江に来た侍がいたのかもしれない。たしかなことは言えない。未だに謎である。

三次市

三次市

竹原市

竹原市

                  

 

出雲崎 

荒波や佐渡によこたふ天河

 

出雲崎は出羽三山への旅で、山形から妙高駅に向かう途中通過したはずである。佐渡の島へ渡ったことはないが、見たことはある。日本酒の名前にもなっている八海山に登った時にはるか遠くに見えた。登ったといってもロープウェイだが、好天に恵まれかすかに佐渡島が見えた。上の方にうっすらと黒っぽく見えるのが佐渡である。

その後2017年秋、金沢港からクルーズ船に乗り北海道の苫小牧へ向かう途中、朝の5時半頃佐渡の横を通過した。

 

      

八海山から見た佐渡

八海山から見た佐渡

クルーズ船飛鳥から見た佐渡

クルーズ船飛鳥から見た佐渡

        

金沢 

わせの香や分入右は有磯海

塚も動け我涙声は秋の風

秋涼し手毎にむけや瓜茄子

あかあかと日は難面もあきの風

 

金沢へ初めて来たのは学生時代、三年生の時である。目的はゼミの社会調査のために富山のベアリングを製造する会社を訪れることであった。調査に参加した4人が兼六公園に立ち寄り記念写真を撮った。

50年後、再び同じ場所に立った。

何時来たか分る。昭話38年11月8日であった。翌日、東京へ戻る時にニュースで三池炭鉱の爆発事故と鶴見駅列車事故が起こったことを知った。

かねてより、金沢のある加賀藩が何故百万石もの経済力があるのか疑問に思っていた。その後、何度か訪れる内にその理由が分かったように思う。領内には砺波平野の米、五箇山の硝煙、城端の絹、奥能登の塩と炭があった。塩を松前藩に売り昆布を仕入れた。

加賀藩は米を始めとするこれらの産物を上方の京・大坂で売りさばいた。その物流ルートは若狭湾から琵琶湖を経るものであった。

 

永平寺

五十丁山に入りて永平寺を礼す。道元禅師の御寺也。邦機千里を避けて、かかる山陰に跡を残し給ふも、貴きゆへ有とかや。(奥の細道)

 

2017年12月11日、東尋坊を訪ねる。嵐のような天気で早々に引き上げた。東尋坊とは恨みを買ってここから突き落とされた坊さんに由来があると説明を受けた。岩は柱状節理で構成され規模は大きいといわれる。

東尋坊の後、永平寺を参拝した。山門をくぐると、階段の多いお寺であった。お寺の中に掲示してある「人生に定年はない」の文句が気に入った。早速、写真に撮った。この気持ちを持ち続けよう。

人生に定年はない

人生に定年はない

大広間でビデオを流していたので少し時間もあったので見ることにした。三徳六味という精進料理の解説であった。六味とは苦、辛、甘、鹹、酸、淡のことである。

 

小松

しほらしき名や小松吹萩すゝき

むざんやな甲のしたのきりぎりす

その後金沢の兼六園へ向かう。三度目である。途中「小松」付近で見えた日本海は大荒れであった。

 

小松付近 : 冬の日本海

小松付近 : 冬の日本海

 

敦賀 

月清し遊行のもてる砂の上

名月や北国日和定なき

 

敦賀は特急サンダーバードで金沢や上信越地方へ行く時に通過することの多い駅である。敦賀駅に降りたのはたったの二回しかない。最近では昨年2月ひと筆書きの冬の旅を試みた時である。古くは10年以上前にかつてヨーロッパの玄関口であった港を見に行った時である。そこには、新橋ー伯林間の切符が展示されていた。

敦賀駅から小浜線の方を望む

敦賀駅から小浜線の方を望む

 

 

大垣

蛤のふたみにわかれ行秋ぞ

 

芭蕉は敦賀から大垣へは北国街道を歩いた。福井県から現在の滋賀県長浜市、米原市を経て岐阜県に入った。途中、戦国時代に織田軍と浅井・朝倉軍の戦いの舞台となった姉川を渡り、近江の最高峰伊吹山を左に眺めながら南へ歩んだ。奥の細道は大垣で終わる。

姉川        

姉川

伊吹山

伊吹山

                  

大垣は2012年3月、東海道線から樽見鉄道線に乗り換え谷汲駅に向かう時に通過した駅である。2010年1月に前立腺癌と診断され、京大病院でIMRTという放射線治療を受けた。神にすがる思いで西国三十三札所巡りを思い立った。早速、京大病院近くの行願寺から始めた。旅行会社のツアーではなく、電車やバスの公共交通を利用し自分の足で巡ることにした。例外は日本海側の舞鶴や宮津のお寺で、そこへは車を運転して行った。

岐阜の谷汲山華厳寺は三十三番目、最後の参拝となった。満願成就した。しかし目的を遂げたというような達成感はなかった。治療はすでに終わっていたからだと思う。途中から「神にもすがる」気持ちが次第に薄れ、御朱印帳に判を押してもらうことだけが目的になってしまった。まるでスタンプラリーをしているようであった。

谷汲山華厳寺

谷汲山華厳寺

樽見鉄道

樽見鉄道

      

 

石山 幻住庵

芭蕉は「おくのほそ道」の旅を終えた翌年大津石山の幻住庵という草庵で暮らしたことがある。幻住庵の存在については、高校の教材に幻住庵記があり覚えていた。

石山の奥、岩間のうしろに山あり。国分山といふ。・・・・

蓬、根笹軒をかこみ、屋根もり壁おちて、狐狸ふしどを得たり。幻住庵といふ。

今年3月5日、天気も良く春めいてきたので、幻住庵を訪れることにした。名神高速から京滋バイパスに入り石山で出ると案内標識が目の前にある。右へ行くと石山寺、左が幻住庵である。10分ほど走ると到着し無料駐車場に停めた。木々に囲まれた階段を上がっていくと、そこに幻住庵がある。

番をしている人が愛想よく「どこから来たのか」と話しかけノート差し出された。住所と名前を記帳した。この人の説明によると、芭蕉は元禄三年(1690年)四十七歳の時、四月六日から七月二十三日まで三カ月半、静養のため幻住庵に入った。

庵は大津市が1991年復元したもので、実際は幻住庵記にあるように「屋根は雨漏りし、壁は落ちて、狐や狸の格好の寝床になっていた」といって、絵を見せてくれた。

今の幻住庵(1991年復元)

今の幻住庵(1991年復元)

雨漏りした幻住庵の絵

雨漏りした幻住庵の絵

 

伊賀上野

幻住庵を出ると旧東海道の狭い道を通り抜け瀬田の唐橋を渡った。芭蕉の生家は名神高速を経由してほぼ1時間のところにあった。上野赤坂町である。大通りに面していたが、ナビがなければ見つけにくい。喫茶店の駐車場に停めさせていただいた。生家は補修中の貼り紙があり中を見ることはできなかった。土塀は江戸時代からのものに見えたが、建物は昭和時代のようだった。

伊賀上野赤坂町の生誕地

伊賀上野赤坂町の生誕地

伊賀上野赤坂町の生誕地

伊賀上野赤坂町の生誕地

 

 

大坂

大坂滞在中の句

秋深き隣は何をする人ぞ

 

芭蕉は最期を大坂で迎えた。元禄七年(1694年)十月十二日、御堂筋の旅館「花谷仁左衛門」の離れで永眠した。五十一歳であった。ネットで調べると、大坂に来た理由は弟子の酒堂と之道の争いを調停するためであった。

生誕地伊賀上野を訪れた翌日、3月6日に芭蕉終焉の地を訪ねた。交通の激しい御堂筋の側道と本堂の間にひっそりとあった。大阪市中央区久太郎町3丁目である。地下鉄御堂筋線本町駅で下車、南の方へ歩く。高層道路の下を通り抜け、次の信号との間にある。

気の付く人もなく、花束も置かれてはいない。

芭蕉終焉の地

芭蕉終焉の地

 

膳所(ぜぜ

芭蕉の遺骸は、その日のうちに淀川を船で伏見まで運ばれ陸路、膳所義仲寺・木曽義仲の隣に葬られた。

「旅に病んで・・・」の碑

「旅に病んで・・・」の碑

芭蕉の墓

芭蕉の墓

            

 

旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 

この句は芭蕉が亡くなる前に病中吟と前置きして作った句である。その碑は墓とともに義仲寺の中にある。

芭蕉は生前、「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言していた。木曽塚とは膳所(ぜぜ)にある木曽義仲の墓のことである。木曽義仲は源範頼・義経の軍勢と戦い惨敗、膳所の近くの粟津で1184年に討ち死にした。義仲の亡骸は当地に葬られた。その後変遷があり、義仲寺と呼ばれるようになった。

幻住庵でいただいた資料によると、芭蕉は遺言に「ここは東西のちまた、さざ波きよき渚なれば、契り深かりし所也」と記している。近江では、琵琶湖のことを単に「うみ」という。水は人の心を和ませてくれる。今では、膳所のこの辺りは「うみ」が埋め立てられホテルや百貨店がある。昔は芭蕉が眠るこのあたりまで、渚があったのである。東の方には近江富士といわれる三上山、西には雪を被った比良山系の山が見える。このような地で安らかに眠りたいと思ったに違いない。

うみと近江富士

うみと近江富士

うみと比良山系の山

うみと比良山系の山

 

膳所は3年間の高校生活を送った所である。膳所は芭蕉とのつながり近い土地であることが背景にあったのかもしれない。古文の授業では奥の細道が教材のひとつになっていた。この一文を書くにあたり、すぐに幻住庵のことが頭に浮かんだ。幻住庵記の一部も習ったからである。幻住庵のある石山国分も膳所からさほど遠くはない。

 

母校の前で

母校の前で

 

アメリカ人の親切

アメリカ人の親切

ワシントンの桜

アメリカ生活2年目、1994年4月のことであった。バージニア州にある会社と技術提携の話を進めていた。その会社はWinchesterという南北戦争の激戦地にあった。北軍と南軍が毎日のように入れ替わった所である。首都ワシントンから車で北西に約80キロメートルの所にある。その会社で打ち合わせのために金曜日に訪問することにした。

週末はワシントンで過ごし、ポトマック川の桜を撮る計画である。そのため少しばかり高級なカメラを買った。ワシントンの空港に着いたのはお昼時であった。軽食の店の前でカメラの入ったショルダーバッグを椅子の上に置き、何を食べようかとショーウィンドーのメニュウを見ていた。一瞬の出来事だった。気の付いた時にはショルダーバッグが消えていた。ワシントンはアメリカの首都である。世界の首都といってもよい。世界で最も安全な都市と思い込んでいた。置き引きに遭うとは夢にも思わなかった。

訪問先に着くと、真っ先に被害に遭ったことを話した。それを聞いた社長が「アメリカ人として大変申し訳ないことをした」と犯人でもないのに謝ってくれた。その上、打合せが終わり帰る時に、「お詫びのしるしに」と新品のカメラを渡してくれた。

写真はそのカメラで撮ったワシントンの桜である。やや色あせているが、フィルム写真だから仕方がない。ぼくにとっては貴重な写真で、額に入れて書斎に飾っている。これを見ると、いつもアメリカ人の親切を思い出す。

 

 

 

 

Wonderful

デトロイトに赴任して3年目、1995年4月阪神淡路大地震の年のことである。自動車用電子部品を製造する工場の予定地ミネソタ州に出張する日々が続いた。ミネソタ州はカナダと接し、ミシシッピ河が流れ出す源でもある。古い世代であれば「ミネソタの卵売り」という歌謡曲で知られた馴染みのある州である。

ミシシッピ川の洪水

ミシシッピ川の洪水

 

週末を利用してカナダ国境までレンタかカーでドライブすることを思い立った。土曜日の朝、州都セントポールを出発し途中鉱山跡に立ち寄り北上した。その夜は国境近くの湖畔のホテルに泊まった。

翌日曜日、国境沿いに針葉樹林の森の中を東へ走り南下することにした。国土の広いアメリカはどこまでも同じ景色が続く。やがて薄暗い森の中を抜けると、一面菜の花畑が広がった。そして、その前方に突然湖が現れた。五大湖の一つスペリオル湖である。向こう岸は見えない。まるで海のようであった。景色の単調な森を走り続けてきた者にとっては、水のある風景は心を和ませてくれる。この光景を是非写真に撮っておきたい。思い出として残しておきたい。車を停めるとカメラを持って飛び出した。ワシントンの桜を写したカメラである。何枚かフィルムに収めた後、車に戻った。ドアが開かない。キーを差し込んだままロックしてしまったのだ。窓ガラスを壊すわけにもいかない。携帯電話も中に置いたままで、知人に連絡する術もない。半ばパニック状態に陥った。

治安の悪いデトロイトでは、車が故障し路上に停止した場合、車外に出てはいけないというのが鉄則だ。強盗の被害に遇う危険が高まる。暫くの間、車の陰で身を隠していた。しかし身を隠したところで事態は解決しない。行動が先だ。人の助けを借りる他には解決する道はないと意を決した。

車の陰から恐る恐る出て、手を振って助けを求める合図を送ることにした。片田舎のことで、通る自動車はそれほど多くない。気付かないのか、トラブルに巻き込まれたくないのか、手を振っても通り過ぎて行く。やがて通り過ぎて行った車が引き返してきて停まってくれた。事情を話すと、次の町で警察に連絡すると言ってくれた。救われた気持ちになった。パトカー(英語ではpolice car)を待つ間も、手を振っていないのに、何台かの車が止まり「May I help you?」と聞いてくれた。

ミネソタにはノルウェーやスウェーデンなど北欧から移り住んだ人が多い。湖や森が多く気候風土が似ているため住むのに適したに違いない。寒い土地で農業や林業で暮らす人々は困っている人を見かけた時は、自然と助ける習慣が身に着いたのではないかと思う。

ほどなくパトカーが2台も到着した。薄い鉄板をガラスとドアの隙間に差し込んで開けてくれた。車を停めて助けてくれた人や警察官に何度もお礼を言った。翌日、地元の新聞社に感謝の気持ちを認めた手紙を出した。

この地方の人々は日常会話で「Thank you」というと、{Wonderful}の言葉で返す。何と素晴らしい表現ではないか。言葉だけではない。この地の人々の人情もWonderfulである。

その時写した写真である。日本であればこのような風景はどこにでも見られる。陸ばかりのアメリカでは、湖や川の水のある風景を見るとホッとする。4月も終わりに近いというのに湖はまだ氷で覆われていた。ワシントンの桜の写真とともにぼくにとっては大切な写真である。

ヨーロッパの交通システム

ヨーロッパの交通システム

ヨーロッパの玄関口

今年放送されてるNHK大河ドラマ「いだてん」。オリンピックのマラソン選手は東京の新橋から福井県の敦賀を経て日本海を渡り、シベリア鉄道でストックホルムへ向かった。

敦賀はかつてヨーロッパ大陸への玄関口であった。10年ほど前にそれを確かめるために敦賀へ来た。リトアニア駐在の外交官杉浦千畝氏が発行した命のビザで多くのユダヤ人がこの港に上陸した。敦賀から神戸や横浜に行き太平洋を渡った。またシベリアに抑留されていたポーランドの子供たちも逃れてきた。

鉄道資料館には新橋発伯林行きの切符が展示されていた。敦賀はヨーロッパへの玄関口であったことがわかる。

 

ヨーロッパの交通システム

敦賀とつながっていたヨーロッパの交通システムは国によってさまざまである。三つの類型がある。仮にイギリス方式、ドイツ方式、フランス方式と名づける。

イギリス式

日本の交通システムは、明治時代にイギリスから鉄道技術を取り入れたためイギリス方式が採用されている。すなわち複線の鉄道線路では、列車は左側を通る。自動車も同じで左側である。運転席は右にあり右ハンドルだ。

地中海に浮かぶ島、かつてはイギリスの植民地であったマルタは当然のことながら、イギリス方式である。赤いポストはその名残である。同じ右ハンドルということで、日本車が多かった。驚いたことに日本では生産されなくなったいすゞ自動車の乗用車が駐車していた。

この島は1989年 12月2~3日に冷戦を終わらせるため米ソ首脳会談が行われた歴史的な島である。

  

赤いポスト

赤いポスト

左側通行

左側通行

いすゞの乗用車

いすゞの乗用車

                 

ドイツ式

イギリスとは正反対のドイツ方式がある。自動車も鉄道も右側通行である。

ドイツのアウトバーン

ドイツのアウトバーン

ノルウェーの高速道路 

ノルウェーの高速道路

ノルウェーの鉄道

ノルウェーの鉄道

   

      

アメリカもドイツと同じである。

ヨセミテ方面へ向かう車列

ヨセミテ方面へ向かう車列

アメリカの貨物列車、とにかく長い

アメリカの貨物列車、とにかく長い

 

ところが、この中間にフランス方式がある。自動車はドイツと同じ右側を走るが、鉄道はイギリス方式である。ナポレオン時代に、イギリスに対抗して馬車は右側通行にした。その結果、ヨーロッパ大陸では自動車も右側を走るようになった。鉄道については、蒸気機関車を発明したイギリスから技術を学んだため左側になっている。もっとも地下鉄は路面電車の延長という考えから右側になっていて複雑だ。

このフランス方式を採用している国がドイツの周辺にある。スイスやチェコである。ドイツからICE(Inter City Express)という特急に乗ってスイスに向かうと、国境の小さな駅でしばらくの間停車する。走る鉄道線路を右から左に切り替える必要があるからだ。

左の写真はフランスの鉄道でテレビから撮影したものである。日本と同じ左側を走っている。右の写真はスイスに旅行した時、列車の中から撮影したものである。窓の外に線路が見えるからフランスと同じ左側であることがわかる。向かってくる自動車は右側を走っている。

フランスの鉄道(テレビから)

フランスの鉄道(テレビから)

スイス(鉄道:左、 車:右)

スイス(鉄道:左、 車:右)

  

定年後、関西や名古屋の大学で学生を前に会社員時代の経験を話す機会があった。90分授業で年に一回か多くても二回の授業であった。この時話した内容の一部である。

世の中には、選択の余地がないルールと、選択の余地はあるがどちらかに決めないと世の中が機能しないことがある。「人を傷つけてはいけない。人の物を盗んではいけない」などは前者の例である。後者の例として、「生ごみは月曜と木曜」というゴミ出しのルールや、交通システムがある。そのため、ヨーロッパの交通システムは国によって異なるのである。  

ヨーロッパの鉄道の思い出

幼児専用コンパートメント

20年ほど前、オーストリアのブリゲンツで開かれた音楽祭に行った。舞台は湖の上につくられ、オペラ仮面舞踏会が上演された。終わりには花火が打ち上げられ、劇場の舞台では見られない迫力があった。

帰りはボーデン湖畔のリンダウからローカル線に乗り、ウルムからフランクフルトまでのICE(特急のこと)のコンパートメントの指定席をとっておいた。入口の扉に「Klein Kind Abteil」と書かれた貼り紙がしてある。ぼくらの席には幼児連れの二組が占有している。何かの間違いではないか。押し問答するも席を譲ろうとはしない。仕方なく、空いた席を探したが車内は込み合っていて座れない。車掌を探したが、近くにはいない。よく考えると、「幼児用コンパートメント」という意味だ。

シュツットガルトに停車した時ホームでやっと車掌をつかまえた。ぼくらの席は他の一般席の車両に移したといって案内してくれた。ところが、そこにも既に別の乗客が座っていた。ドイツでは指定席と自由席の区別はない。空いている席には誰自由に座ることができる。それが自由席になる。座席を確保したければ指定席券を買えばよい。車掌はその客を立たせた。一息入れてしばらくすると暑さと疲れのせいか、近くの席で幼児が大きな声で泣き出した。それにつられて別のところからも泣き声が上がった。

ようやく扉に貼られていた言葉の理由が分かった。幼児の鳴き声から周りの乗客に迷惑をかけないための工夫である。

それにしても車掌はウルムで乗車した時に指定席が変わったことを知らせる工夫をすべきではないか。幼児を他の客から隔離するとはよく考えている。しかし、はみ出された乗客のサービスにまでは、手と頭が十分に回らないようだ。(2000年9月)

 

イタリアの列車の中で

旅では色々な経験をする。楽しいこともあれば不愉快なこともある。初めてのウィーンでは、すれ違った見知らぬ人から楽友協会のチケットを二枚頂いた。毎年NHKが生中継するニューイヤーコンサートの劇場である。ハンガリー交響楽団の演奏だったと思う。

定年で帰国する直前の休暇を利用してイタリアのヴェローナという町で開かれる夏の音楽祭に行った。この町の円形闘技場では毎年オペラが上演される。あいにく開演間近に夕立が降、開演が10時に延びた。上演されたのは一幕のみであったが、アイーダは迫力があった。

翌日、列車でフィレンツエへ向かった。この時も、コンパートメントの指定席をとっていた。中に入ると6人掛けの席には、すでに夫婦と子供二人の家族の他に老婆の5人が座っていた。明らかに老婆が不法占拠している。切符を見せるように言っても、目をつぶり、横を向いて知らぬ顔の半兵衛を決め込んだ。

目的地のフィレンツエまでは、わずか30分のことだから通路に立つことにした。すると子供連れの父親がドアを開け、ぼくを招き入れ小学生の子供を立たせ座らせてくれた。お礼を言うと、子供の教育のためだという。スイスから来た大学教授だった。人間の二つの側面を見ることができた。教えられる旅であった。

2019年1月アンケート調査 結果

加齢黄斑変性の実態調査

 2019年1月実施 アンケート

この度のアンケートには、8割を超える51名の方から回答頂きました。ご協力ありがとうございました。

このアンケートは第7回定例会で 兵庫医科大学眼科学教室主任教授 五味 文先生 が行われた調査項目に、友の会独自の項目を若干追加し年齡や性別による差異がないかを調べたものです。

友の会への建設的なご提案や励ましをただきありがとうございました。

ご提案にはできるだけ対応させていただきます。(「要望と回答」ご参照ください)

回答者の男女別年齢別構成

会員の居住地

加齢黄斑変性症の発症

加齢黄斑変性症の型

滲出型と萎縮型の両眼の一が3名、不明の人が3名

発症した時の年齡

60歳で発症する人が多い

 

1 あなたが黄斑疾患に気付いたきっかけは何でしたか?

歪みは質問の選択肢にはなかったが、その他で具体的に記入した人が多かった。具体例は次の表

 

具体例

表の角がゆがんで見えた
テレビを見ていてゆがみがあった
左目の中に黄色いものが見え、すぐに金城の眼科へ行きました。そのときにはストレスから来るもので、三ヶ月ほどで勝手に治ると言われて様子を見ていましたが、だんだん黄色い物が黒ずみ、ゆがんでみえるようになり再度眼科に行った時に加齢黄斑変性症といわれた。  
パソコンの外枠が歪んで見えた
アムスラーチャートの歪み、最初は右目、2年後に左目
道路の中心線がゆがんで見えた
左目の左隅がゆがんで見えた
卓球をしていてボールを一瞬見失った
私の父た黄斑変性症です。左目はだいぶ以前より(たぶん15年くらい前)中心が見えないと言っていました。2年前に白内障手術をしました。その後よく見えていたのですが、最近どうも見えにくそうだなと思い受診して黄斑変性と分かりました。
道、電柱等直線であるべきものが曲がって見えるようになった

 

ゴルフ中ティーショットの際ボールが二個のように見え眼科に検査、碁盤の目が曲がって見え関西医大を紹介された

携帯がふくらんで見えたりマンションの柱や障子の桟がゆがんで見えた

TVの番組の特集でたまたまテストが放送されており何気なく試したら、右目で見たときの線がゆがんでいました。その後検診で確定しましたが、まだ編成は小さく経過観察で3ヶ月毎に検査しています。
テレビの健康番組
朝、起床時テレビの画面がゆがんで見えた
  窓枠がゆがんんで見えた
線がゆがんで見えた
段差に気付かずころんだ
運動中に見にくくなった
最初は網膜前膜で、一年経過後に加齢黄斑変性症、その後再び加齢黄斑変性症でないといわれています。

 

2 最初にきづいたときの症状を教えてください

 

3 黄斑疾患の診断を受けてからどのくらい期間が経っていますか

 

4 あなたは今黄斑疾患について治療を受けていますか

 

 抗VEGF薬の注射のタイミング

 

6 どのくらいの間隔で通院しています

 今の主治医はどのようにして選びしたか

 

性別、年齢別による特徴は見られない

 

主治医について

8 今の主治医に対する考え

 

9 今の主治医・治療に対する不満の理由 

見通しががわからないことに不安を覚える人が多い一方で、不満はない人(無記入)も多い。

 

10 現在の治療への不満の中でもっとも深刻なものは何ですか

 

サプリメント

11 黄斑疾患予防目的でサプリメントをとっていますか

 

12 サプリメントをとることで何らかの効果を感じますか

 

 

 

13 あなたが病気について情報を得るのは、以下のれが最も多いですか

 

 

14 これがあると助かると感じるものは

 

15 これから治療を受ける方に伝えたいこと

 

16 iPS細胞由来の網膜色素上皮細胞を移植する臨床研究が進んでいます。実用化された場合、治療を受けたいと思いますか

 

 

17 受けたいと思わない理由

もっと確実性(よく見える)が高くならないと怖いです    (80歳代女性)

歳を取っているし黄斑以外でも色んな病気をかかえているから(80歳代女性)

何例もして間違いないと思ったとき、費用も自分で払える程度なら       (70歳代女性)

臨床研究の進行度合いの情報が少なく判断できない      (70歳代男性)

現在の治療、自身で選んだ健康食品で満足している。他の人にも是非お勧めしたい (70歳代男性)

最初医師から治療法はないといわれ、眼底をみてとても難しいと思いました

90歳代男性)

今年で84歳、大金をかけられない           (80歳代男性)

視力回復は望めないと思っているから          (70歳代男性)

難病だから仕方がない                 (70歳代女性)

自身85歳の高齢ですし費用の面で            (85歳男性)

費用、年齢   (70歳代男性

 

 

友の会への要望と回答

年会費についての提案

もし、双方で了承できるのであれば情報のやり取りをパソコンやEメールで行ったらいいのでは?と思います。ハガキや封書では郵送料の負担が大きいと思いますので(但し普段から使用している人に限ると思いますが)                     (50歳代男性)

年会費が高いと思います。            (60歳代男性)

2017年12月NPO法人に移行後、年会費を1000円から3000円に改正しました。現状は3000円でも不足するため、多くの方からの寄付や助成金で運営しています。

年会費を改正した結果、2018年の会員更新時に約10名の方が退会されました。残念な思いをしています。病気は人を選びません。黄斑疾患の人は誰でも会員になっていただく仕組みを作ることが大切だと考えています。

そこで年会費3000円が負担と思われる方には、例外的に「メール会員」とし従来通り1000円にいたします。ただし資料類は郵送に替え、原則としてメールで送ることでご要望にお応えしたいと思います。希望の方は事務局までご連絡ください。

 

話し合う場の提案

体験談の二回目三回目とどのように病気と向かい合い良い方向にいかれたのか話し合う場を提供していただくようお願いしたい。良くなっても又悪くなるのではとの不安があります。 
目がよく見えないのと身体不自由のため大阪中心でなく各地でも友の会の会合を開いて欲しい。  

友の会では、年回大阪市内で開催する定例会の他、関西各地で見学会や歩こう会を催しています。しかし、いずれも会員同士がゆっくりとした雰囲気で語り合える場がないことを承知しています。

ご提案の「話し合う場」の第一回は4月3日午後1から大阪市中央公会堂第6会議室で行います。テーマは決めず気楽に話し合う会です。名称は「二水会」で原則として第二水曜に行います。第一回は予約の都合で第一水曜になりました。会員への郵送物のお手伝いもお願いすることもあります。その節はご協力のほどよろしくお願いいたします。お菓子やケーキの持ち込み大歓迎です。会費は500円。

大阪以外での開催は会員の7割が大阪府と兵庫県であることから現状では困難です。ご要望の各地で会合を開けるように、会員が増えるよう努力してまいります。

 

 

宿泊旅行の提案

年に一度くらいで宿泊旅行等を考えていただければ一人で無理な方でも助け合って出かけられたらと思います。 (60歳代女性)

一昨年、京都宮津方面への「カニ旅行」を計画しましたが、参加希望者名で実現しませんでした。

「かんぽの宿」での宿泊を計画します。赤穂と彦根です。赤穂は瀬戸内海に、彦根は琵琶湖に面する風光明媚な所です。いずれも料金が割安で料理がおいしく温泉もあります。城崎温泉も候補のひとつです。

いずれもJRで乗り換えなしで行くことができます。交通手段は参加人数や参加者の住所を考慮して決めることにいたします。

第一回は11月中旬を予定しています。月頃希望者を募ります

 

iPS細胞治療の進捗情報を詳細に報告してほしい。

iPS細胞に関する情報は今後もお伝えしていきます。

神戸理化学研究所とアイセンターの見学会(313日)には是非参加してください。

ここまで2019年1月アンケート調査記事

 

 

iPS細胞との出会い

[Ⅰ]iPS細胞との出会い

1.妻の病気

iPS細胞という言葉を初めて知ったのは2011年6月のことであった。その頃、血液がんの一種である骨髄形成症候群(MDS)という病気で入院していた妻に、毎日読み終えた日経新聞を届けていた。こうがん剤治療は効果がないとの理由で打ち切られ、延命治療としては輸血だけが残されていた。治療に専念していた妻は科学欄にまで目を通す毎日であった。その中に、東京大学医科学研究所の江藤浩之先生がiPS細胞から血小板を作り出す研究をしているとの記事に興味を抱いた。輸血で延命していることから、血液の情報には関心を持っていたようだ。

妻は研究に役立てるために寄付をしたいと言い出した。子供が大きくなってから仕事を始めたので、いくらかの蓄えがあった。自分も妻と同額を医学研究目的にと東京大学に寄付した。二人の名前が安田講堂の銘板に刻まれた。

 

 

医科学研究所の江藤先生は、その後京都大学iPS細胞研究所に移られることを新聞で知った。そこで、京都大学にも二人で寄付することにした。それから半年もたたない2011年12月に妻は亡くなった。

妻の遺産の大半を東京大学と京都大学に医学研究目的に寄付させていただいた。「一年後の生存率20%」との余命宣告をされてから、一年をはるかに超え544日も生きることができた。これは多くの方から貴重な血液をいただいたお蔭である。そうした思いから、妻が働いて残してくれたものは自分の老後に使うより、少しでも病気で苦しむ人の役に立ちたい、医学研究目的に使って頂くことが妻の遺志でもあると考えたからである。

 

昨年夏ごろ、血小板の臨床研究がいよいよ始まることをニュースで知った。少しでもお役に立てたと思うと喜びもひとしおであった。京都大学の発表によると、iPS細胞から血小板をつくり「再生不良性貧血」の患者に輸血する臨床研究は近々始まる予定であるという。             

東京大学から毎年感謝の集いに招かれている。集いでは安田講堂で講演があり、2015年ノーベル物理学賞を受賞された梶田隆章教授ニュートリノの話を聞いたことがある。

 

2012年10月8日、京都大学山中教授がノーベル賞を受賞されるとのニュースに接した。

 

山中伸弥所長がノーベル生理学・医学賞を受賞!

ノーベル財団(本部:スウェーデン)は、日本時間の10月8日(月)夕方、ノーベル生理学・医学賞を山中伸弥 iPS細胞研究所長(米国グラッドストーン研究所上席研究者)に贈ると発表しました。共同受賞者は、ジョン・ガードン卿(英国ケンブリッジ大学ウェルカム・トラスト/英国癌研究基金ガードン研究所教授)です。受賞理由は成熟した細胞を多能性を持つ細胞へと初期化できることを発見したためです。

(京大iPS細胞研究所ホームページ)

 

このニュースから8日後の10月16日、京都大学の山中教授から直々に感謝状を頂き記念撮影もしていただいた。後に、国から褒章と木杯を戴いた。毎年、この木杯で新年を祝うのが楽しみの一つである。

 

国からの褒章

 

2.加齢黄斑変性と告げられて

その翌年(2014年)8月の終わりの早朝、パソコンに電源を入れると、右側の枠が何となく歪んでいるように見えた。幸運だったのはその二日後(金曜日)に人間ドックを予約していたことである。夏の疲れかもしれないと思いつつ眼科の女性医師に「ゆがみ」を訴えると、翌週9月3日(水曜日)に検査をすることになった。9月3日、病院で診察を受けると加齢黄斑変性であると告げられ、その日の内に抗VEGF薬の注射が施された。迅速な処置であった。4年経過したが早期発見早期治療のお蔭で、日常生活は不自由するはなく、ときには高速道路を運転することもできる。

それから10日も立たない9月12日、テレビでビッグニュースが流れた。神戸の理化学研究所で加齢黄斑変性の患者にiPS細胞の移植手術を行われたというニュースである。数ある病気の中で加齢黄斑変性が臨床研究対象の第一号になったことに驚くと同時に、何かの因縁があるように思った。妻と私のいずれもがiPS細胞に係る治療を受けられる病気であることに偶然とはいえないような思いがした。明るい光が見えたような気がした。

 

3.「友の会」に参加

翌年10月に患者団体「関西黄斑変性友の会」を立ち上げ、情報収集を行い直接会員やホームページをつうじて提供する活動に携わることになった。70歳も過ぎると世の中とのつながりは次第に減っていく。大学の臨時講師のような仕事も75歳で辞めることになる。病気を通してしか役立つ方法はないとの思いからであった。それまで関西での患者に対する支援活動は、東京を拠点に活動していたAMD Internationalの神谷和子さんと大阪市内で眼鏡店を営む星野龍一さんがされていた。お二人から関西で患者会を立ち上げようとの誘いを受け代表世話人の役目をお引き受けすることになった。

友の会発足について、神戸新聞からインタビューを受け顔写真入りで掲載していただいた。生れて初めてのことである。翌年5月にはテレビ朝日の「たけしのみんなの家庭医学」という番組から取材を受けた。階段がゆがんで見えるので、気を付けて昇り降りする話をした。テレビに出たのも初めての経験であった。

 

[Ⅱ]加齢黄斑変性とiPS細胞について

 

患者会の活動に関わるようになって、加齢黄斑変性とiPS細胞の臨床研究に関する情報を意識して集めてきた。講演会には積極的に参加し研究論文を読み理解を深めるように努めた。そこで加齢黄斑変性とiPS細胞について基本的なことをまとめることにした。

図を使った方がわかりやすいのだが、著作権のことも考え控えることにした。文章が多くなったが、最後にiPS細胞に関する情報を得られるホームページを記載したので参考にしていただければと思う。

 

1.iPS細胞とは

iPS細胞とは京大のホームページには次のような説明がされている。

人間の皮膚などの体細胞に、ごく少数の因子を導入し、培養することによって、様々な組織や臓器の細胞に分化する能力とほぼ無限に増殖する能力をもつ多能性幹細胞に変化します。 この細胞を「人工多能性幹細胞」と呼びます。英語では「induced pluripotent stem cell」と表記しますので頭文字をとって「iPS細胞」と呼ばれています。 名付け親は、世界で初めてiPS細胞の作製に成功した京都大学の山中伸弥教授です。

下3番目の写真は京都大学iPS細胞研究所の展示室に置かれた顕微鏡から撮影したものである。

 

 

京都大学iPS細胞研究所は一年に数回一般公開をしている。その時の説明によるとiPS細胞は人の皮膚や血液の細胞に四つの遺伝子(多能性誘導因子)を導入して培養する。山中教授はこの四つの遺伝子をつきとめられた。

(図は京大iPS細胞研究所ホームページより)

 

(2月13日NHK総合テレビ【探検バクモン】より)

 

iPS細胞はそのままでは人の体に移植することはできない。例えば神像や神経など、再生すべき細胞に分化しなければならない。受精卵が細胞分裂を繰り返して人に成長するのと同じプロセスをたどる。分化誘導するためには、物質を加える。研究所の説明員によると、どのような物質を加えるかは発生学という学問からある程度推定できるそうだ。iPS細胞には人の細胞に変化していく遺伝子情報がある。

 

(図は京大iPS細胞研究所ホームページより)

NHKのテレビでは下のような図を使って説明された。iPS細胞は色々な遺伝子情報を持っている。

(2月13日NHK総合テレビ【探検バクモン】より)

 

筋肉の細胞を作りたい時は、その部分のみを取り出すのだそうだ。

(2月13日NHK総合テレビ【探検バクモン】より)

このような技術によって体の細胞が作られていく。番組の中で山中先生は、細胞に分化誘導させるのであって臓器を作るものではないと強調されていた。すなわち心臓であれば、心臓の細胞を作るのであって、心臓を作るのではないということだ。

(2月13日NHK総合テレビ【探検バクモン】より)

 

 

2.臨床研究の始まり

2014年9月12日発表された加齢黄斑変性の患者に対するiPS細胞は自分の細胞から作ったものであった。自分の細胞のことを「自家細胞」と呼ぶ。

講演会で見たスライドには「自家iPS-RPE細胞シート」と書かれている。「RPE細胞」とは網膜色素上皮細胞のことで、シート状のものが移植された。

一例目は移植を果たしたが、続く二例目は遺伝子異変が見つかり移植を断念したと伝えられている。自家細胞による臨床研究は実質的に一例だけで終わった。

iPS細胞の培養に一年近くの長い期間がかかる上、安全性確認のために患者一人につき1億円とも言われる費用の問題がある。

 

(2月13日NHK総合テレビ【探検バクモン】より)

 

3.自家細胞から他家細胞へ

この自家細胞の機関や費用の問題を解決するため、他人の細胞から作ることが考えられた。「自家細胞」に対して他人の細胞のことを「他家細胞」という。備蓄した他家iPS細胞を使えば費用を節減し時間を短縮できるというわけだ。

「自家細胞」の場合は、細胞シートが移植されたが、2017年に行われた5人の患者に対する臨床研究では「懸濁液を注射する」方法がとられている。RPE懸濁液移植手術のあと、網膜前膜除去手術が行われる。

 

「他家細胞」を用いた臨床研究については、2017年3月28日に発表があった。兵庫県内の60歳代男性に「他家細胞」から作った網膜上皮細胞による手術をしたという。新聞初めテレビで大きく報じられた。この時、神戸新聞、産経新聞、読売新聞、NHK神戸放送局から取材を受けコメントを求められた。次は神戸新聞の記事を抜粋したものである。

神戸新聞 医療ニュース   2017.3.28  21:25

 世界初、神戸で他人のiPS移植手術 理研など

神戸市立医療センター中央市民病院(同市中央区)と理化学研究所多細胞システム形成研究センター(同)は28日、重い目の病気を抱える兵庫県内の60代男性患者に、他人の人工多能性幹細胞(iPS細胞)から作った網膜の細胞を移植する手術を同病院で実施した、と発表した。iPS細胞を使った移植は、理研多細胞研などが2014年9月、世界で初めて実施して以来2例目で、他人からの移植は世界初となる。

 

 他人iPS移植 難病患者ら「研究は希望の光」

「生きる希望の光だ」。兵庫県内の難病患者らは、人工多能性幹細胞(iPS細胞)を使った治療の確立へ強い期待を寄せた。

加齢黄斑変性の患者でつくる関西黄斑変性友の会代表世話人の高田忍さん(75)=西宮市=は、移植の臨床研究に参加を希望する多くの患者から相談を受ける。「重症化し失明を恐れる人には切実な問題。より安く、短時間でできる方法として実用化への期待は大きい」と話した。

この神戸新聞の記事からはシート状の網膜色素上皮細胞(RPE細胞)を移植したのか、それとも懸濁液を注射したのか明確ではない。記者は、その手術内容にまで正確に理解し記事にしてはいないように思った。

産経新聞と読売新聞は次のようなコメントを掲載してくれた。

(いずれも2017.3.29朝刊)

産経新聞

関西に住む患者らでつくる「関西黄斑変性友の会」(大阪市)の星野龍一事務局長は「実用化に向けた第一歩といえる。患者にとって明るい兆しになると感じている」と述べた。同会の代表世話人で、滲出(しんしゅつ)型加齢黄斑変性を患う高田忍さん(75)=兵庫県西宮市=は「実用化されても、費用面や安全性などの課題は残る。過大な期待はせず、早期発見や早期治療を促すことも重要だ」と話した。

読売新聞

加齢黄斑変性の患者ら約50人でつくる「関西黄斑変性友の会」の代用世話人、髙田忍さん(75)(兵庫県西宮市)は「iPS細胞を使った医療の実現に近づく大きな一歩だが、研究段階なので、結果を冷静に見守りたい」と話す。

 

この他家細胞の臨床研究は、次の研究機関の協力のもとで行われた。

再生医療用iPS細胞のストックを進めてきたCiRA(京大iPS細胞研究所)が他人由来のiPS細胞を提供し、理化学研究所CDBは移植用の網膜色素上皮細胞を製造する。計画では患者への移植を行うのは神戸市立医療センターと大阪大学であった。2017年3月から11月までに5人の加齢黄斑変性に患者に手術が行われたが、実際に大阪大学で行われたかは明らかではない。

 

この「他家細胞」による手術の発表から10ヶ月後の2018年1月に次のような発表があった。

他人のiPS細胞を使って網膜の病気を治療する臨床研究で、手術を受けた5人の加齢黄斑変性の患者の内2017年6月に手術した70代男性の網膜の上に膜ができ、取り除く再手術をしたと理化学研究所などのチームが発表した。失明のリスクは少なく拒絶反応もないとの説明だ。(2018,1,16)

 

他人の細胞は拒絶反応の問題があり、誰にでも使えるというものではない。ところが世の中には、血液型のO型のように拒絶反応を起こしにくい特殊な免疫タイプを持った人がいる。

京都大学では日本赤十字社の協力を得て、多くの人に適合する遺伝子をもったiPS細胞の備蓄を進めてきた。現在では日本人の40%に適合できるiPS細胞が備蓄されているという。

(2月13日NHK総合テレビ【探検バクモン】より)

 

(2月13日NHK総合テレビ【探検バクモン】より)

人には血液型のようにそれぞれ細胞の型がある。誰にでも提供できるというもではない。自分に合った細胞でなければ拒絶反応が起こる。

(2月13日NHK総合テレビ【探検バクモン】より)

自分以外の人に提供できる細胞を持った人がいる。京大は日赤などの協力でこの細胞の型を持つ人を見つけ出した。4つの型で日本人の40%=4000万人をカバーできる種類のiPS細胞をストック(備蓄)している。

(2月13日NHK総合テレビ【探検バクモン】より)

 

京都大学は、昨年12月今後iPS細胞の備蓄は外部に移管すると発表した。この決定は治療用細胞を製造・出荷する事業は研究とは異なることからなされた。(2018年12月18日)

 

4.臨床研究から治験へ

次の段階は、より多くに患者に研究対象を広げることである。昨年11月21日兵庫県宝塚市で行われた社会人対象のセミナーで理化学研究所生命機能科学研究センターの大西暁士先生が「全国の他の施設でも臨床研究を行う計画である。」と語られた。

その際は公表され、患者募集も行われると思われる。このことは、ネットで調べると高橋政代先生が日本眼科医会で講演されたスライド(2018,5,30)にも書かれている。

実用化されるためには「治験」というプロセスを経る必要がある。「多施設」による手術が臨床研究、臨床試験なのか治験なのかは今の所は発表がないのでよく分からない。

実用化されるまでには、臨床研究、臨床試験、治験というプロセスを得る必要がある。

 

ここで、臨床研究、臨床試験、治験の違いを整理しておきたい。 (以下の説明は新聞記事から引用したものである)

 

臨床研究とはどのようなものですか?

人を対象として行われる医学研究のことです。病気の予防・診断・治療方法の改善や病気の原因の解明、患者さんの生活の質の向上を目的として行われます。そこでは、長時間かけて発症する病気や、稀にしか見られない病気も対象になりますし、すでに行われている治療の効果やその予後を観察していくこともあります。医療に活用できる確かな情報とするため、患者さんにご協力いただいて行われるのが臨床研究です。

 

臨床試験や治験は、臨床研究とどう違いますか?

 臨床研究、臨床試験、治験は図に示すような関係にあります。臨床試験は、臨床研究のうち、治療や指導などの介入を行って、その結果を評価するものを言います。治験は、臨床試験のうち、新しい薬や医療機器が国の承認を得て一般の診療で使えるように、客観的なデータを集めることを目的として行うものを言います。

臨床研究人を対象として行われる医学研究

臨床試験臨床研究のうち薬剤、治療法、診断法、予防法などの安全性と有効性を評価することを目的としたもの

治  験 臨床試験のうち、新しい薬や医療機器の製造販売の承認を国に得るために行われるもの

 

5.他家細胞から「マイiPS」へ、大阪万博が目標

実用化の目標は2025年大阪万博といわれている。大阪万博のテーマは「命かがやく未来社会のデザイン」である。

大阪万博を目標に二つのニュースがある。一つは「マイiPS」で、もう一つは加齢黄斑変性への実用化だ。

「マイiPS」については、山中教授が大阪万博を目標に「マイiPS」を進めると語っている。「他家細胞」ではすべての人を対象に出来ないからだ。少し長くなるが、朝日新聞の記事を引用する。

2025年大阪・関西万博に向け、低コスト、短期間で一人ひとりの細胞からiPS細胞をつくる技術開発を進め、「『マイiPS細胞』を万博会場で披露したい」と話した。

 山中所長は、新薬が高額になっている現状を踏まえ、「これからは単に新しい治療法をつくるだけでなく、低コストで提供できて初めて成功といえる」と指摘。患者自身のiPS細胞をつくるには、現在は品質の検査などに数千万円のコストと1年程度の時間が必要だが、25年ごろには「100万円で、数週間で提供できるようにしたい」と説明した。

 同研究所で進めているiPS細胞の備蓄事業については、「ベストなiPS細胞を低コストで提供することが使命」と強調。現在は免疫反応を起こしにくいまれなタイプの人を探し出して血液を提供してもらっているが、コストがかかる。このため、狙った遺伝子を改変できるゲノム編集技術を20年ごろから導入して免疫反応を抑え、多くの人に移植可能なiPS細胞をつくる方針も明らかにした。

 

加齢黄斑変性の実用化の時期については、昨年12月神戸アイセンター開設一周年記念行事の場で、関係者から大阪万博を目標にしているとの発言がありました。最初の臨床研究から10年です。是非その頃には実現してほしいものです。

iPS細胞の臨床研究は加齢黄斑変性から始まったが、最近では他の細胞の研究が進んでいる。新聞には毎日のように新しい情報が伝えられるようになった。

(2月13日NHK総合テレビ【探検バクモン】より)

 

[Ⅲ]アンケート調査から

今年一月、友の会の患者会員61名にiPS細胞への期待度に関してアンケートをとった。

「iPS細胞由来の網膜色素上皮細胞を移植する臨床研究が進んでいます。実用化された場合、治療を受けたいと思いますか」と質問した。51名から回答があった。

 

年齢別でみると

 

 

受けたくない理由を聞いたところ、次のような理由が寄せられた。

80歳代

女性

もっと確実性(よく見える)が高くならないと怖いです

80歳代

女性

歳をとっているし黄斑以外でも色んな病気をかかえているから

70歳代

女性

何例もして間違いないと思ったとき、費用も自分で払える程度なら

70歳代

男性

臨床研究の進行度合いの情報が少なく判断できない

70歳代

男性

現在の治療、自身で選んだ健康食品で満足している。他の人にもお勧めしたい。

90歳代

男性

最初、医師から治療法がないといわれ、眼底を見てとても難しいと思いました。

80歳代

男性

今年で84歳、大金をかけられない

70歳代

男性

視力回復は望めないと思っているから

70歳代

女性

難病だから仕方がない

85歳

男性

高齢ですし費用の面で

70歳代

男性

費用、年齢

 

一日も早くこのような心配がなくなる情報を期待したいと思います。

 

 

iPS細胞の詳しいことについては、以下をご覧ください。

京都大学iPS細胞研究所のサイト

http://www.cira.kyoto-u.ac.jp/

 

理化学研究所

https://www.bdr.riken.jp/jp/

 

高橋政代先生講演「再生医療とアイセンター」スライド

https://www.gankaikai.or.jp/press/20180530_1.pdf

眼底写真から思うこと (眼底画像の見方)

眼底写真から思うこと

2019年2月5日、大阪の病院で3カ月ぶりに検診を受けた。いつもと同じように視力検査の他に断層写真と眼底写真が撮影された。今回は、加齢黄斑変性の右眼のほかに正常な左眼の撮影も行われた。幸い、今回も右眼は悪化しておらず、抗VEGF薬の注射はなかった。


下の表は2014年9月に発症して以来、暦年毎に注射の回数と、次の注射までの間隔を表したものである。前回の注射は2018年5月22日で9カ月間病状は安定していることになる。2016年には一度も注射がなかったのは、発症時の治療の効果が持続していたものと感がられる。その効果が薄れ2017年には4回も治療を受けた。


2018年5月以降の最も大きな生活上の違いはサプリメント服用の有無である。効果があったと判断している。

 

2014

2015

2016

2017

2018

2019

3

1

0

1

0

    8か月➡       20か月➡ 9か月➡サプリメント

 

 

下は右眼の眼底写真と断層写真である。医師の説明によると、眼底写真の色は網膜の厚さを等高線図のように表わしたものだという。緑色は正常な厚さであることを表し、白色は薄いことを示し水が溜まっていると考えられるという。この写真からは異常がないので、注射は必要ないと判断された

 

下は参考までに撮影された左眼である。右下の断層写真も異常は見られず、眼底写真も素人目にも正常なことがわかる。

 

次の写真は前回注射した9カ月前の2018年5月22日のものである。たしかに白い部分が大きく写っている。納得して注射をして貰った。

 



ところが、念の為に一昨年2017年4月21日の眼底写真をみた。この時は注射されたのである。一見した所、2月5日の写真と大きな違いは見られない。違いはといえば、この間に担当する医師が変わったということだけである。医師の判断にも個人差があるようだ。次の検査の時に、医師の判断基準を聞いてみようと思う。

 


この時から75歳以上の後期高齢者となり3割負担が適用され45400円支払っている。生命保険の手術特約も適用されなくなり負担と感じるようになった。それ以前は一割負担であったことことに加え、生命保険の手術給付金を一回当たり50000円を受け取ることができた。天と地の差がある。

サプリメントの価格
今回、注射をせずに済んだのはサプリメントの効果ではないかと考えている。発症して4年以上経過しているのに、治療をしなくて良い状態が続いているからである。2017年には4回も注射したことと比較するとサプリメントの効果を信じたい。


サプリメントはボシュロムジャパン社の「オキュバイト50+」である。同社から直接購入すると60粒(一ヶ月分)で3780円(税込み)で、3か月分に換算すると11340円となる。ところがアマゾンから三か月分を購入すると6800円である。アマゾンは大量仕入れの価格でボシュロム社から割安で入手しているようだ。この違いは大きい。

【注意】 以上は参考事例であり個人差により合わない場合があることもあります。服用にあたっては「眼科医とよく相談して服用を決めるよう」に願いします。


(2019,02,06 髙田 忍)

テレビ映画の活きた英語

テレビ映画の活きた英語

暇なときはテレビでイギリスの事件映画を見て過ごしている。フロスト警部とかモース警部という番組である。警部は英語ではChief Inspectorと呼んでいる。日本と同様、警察官に階級制度があり巡査、刑事、警部、警視正などそれぞれ異なる言葉が使われている。男性の警察官が女性の警察官に「お茶を入れてくれ」と頼んで、「私はあなたの部下ではない」と断られる場面が出てきたりして意外と面白い。

取調室はWitness waiting room、容疑者はSuspect、殺人犯はKillerで、証拠(Evidence)が揃い、事件(Case)が解決するとEnd of Story(一件落着)となる。聞き取れた英語をノートするようになったきっかけは、このEnd of Storyであった。英語をうまく四字熟語に置き換えている。他にもないかと思い書きとめるようになった。

耳で聴きとれた英語と字幕の訳を記録してきた。一単語から三単語程度の簡単な表現を整理したので紹介したい。

先ずは、単語一つの簡単なものから始める。

Yes ?

見知らぬ人から顔をじろじろ見られた時にいう「何?」。

何の用だ。(「はい」ではない。)

Well?

Yesと同じ意味。何だ。(語尾を上げて疑問形で話す)

Enough

うんざり(小言など十分聞き飽きた時)

Hell

ちくしょう(本来は地獄だが罵り言葉、日本人は使わない方が無難)

Indeed

いかにも(辞書には「実に、なるほど」と出ている)

Calm 

Calm down

冷静に、落ち着いて(興奮した人に対して)

Never

お断り(Noより強い否定言葉のようだ)

同じ意味の表現で「Absolutely not」があった。「まるでない」と訳していたが・・・

Over

おわりよ

Busy

後にして(忙しくて、かまっていられないので)

Problem

力を貸して(自分は問題を抱えている、だから助けてくれ)

Bingo

やったね

Nevertheless

とにかく(「それにもかかわらず」と覚えていたが、日常会話で言うことはない。「とにかく」はうまい訳だ)

 

 

 

次は単語二つからなる言葉

Very kind

うれしいわ(親切な人に対して、自分の気持ちを表現)

How kind

同じ意味だが、相手に感謝の気持ちを伝えているように思った

Fresh air

空気がうまい、外へ行こう、外へ出よう

(息抜きのために部屋の外へ出よう、かなりよく使われる表現)

Get away

来ないで

Hold on

電話をかけてきた相手に待たせる時にいう「待って」。Pleaseを付けると丁寧になる。

電話をかけ直すときはCall back、「電話をして」はCall me

Take care

お元気で(日本語の日常会話で「お元気で」ということはあまりと思う。別れる時に使うので「ではまたね」の方が近い

No idea

知らないわ

No way

とんでもない

Not bad

まあまあだ

That`s right

たしかに(類似の意味でAbsolutely、Correctも使われる)

Down here

こちらへ

Two minutes

すぐ行く(One secondという場合もある)

Trust me

大丈夫よ(元総理も使った言葉、本当に大丈夫?)

Grey are

微妙(白黒がはっきりしない灰色だから「微妙」となる。辞書には微妙はSubtleと出ているが、余り会話では使わないかも知れない)

Our fault

私達のせい(直訳すると我々の誤り)

Good luck

頑張れよ

Attention please

みんな聞いてくれ(空港の放送でも聞く言葉)

After work

仕事の後で、After Schoolは「宿題」と習ったと思う

Fifty fifty

(男女が)合意の上で、(盗んだ金を)山分けなど、比較的よく出て来る表現

Big mistake

悪かった

 

三つの単語

See you later

じゃあね(直訳は「後で会おう」)。明日会う時は「See you tomorrow」

「さようなら」の意味でGood Byeはあまり使わない。二度と会わない意味になる。

ついでに初対面の時「Nice to meet you」といい、二回目以降の時は「Good see you」と使い分けている。

Call you back

折り返し電話します

All of truth

全て本当のことだけ

Back to work

仕事に戻ろう

Let me alone

私にかまわないでくれ、ほっといて

End of story

一件落着(事件が解決したとき)

Not very much

というより

Not my fault

私のせいじゃない

On my way

すぐ行く(今、そちらに向かっている途中)

Everything we can

全力で(できる事は何でも)

You tell her

必ず伝えろ(「君が彼女に話す」と訳してはいけない)

Youを主語にすると命令口調になる。

学校英語で You had betterを習う。「あなたは〇〇した方が良い」の意味で婉曲表現と教える。むしろ「〇〇しなさい」の命令である。

相手に何かを頼みたい時は、前に「Would you mind○○」とか

「Could you please○○」の表現を使う方が良い。

Would you please tell her I will be thereのように使う。意味は「行くと伝えてもらえますか」。この文の「be there」に注意。「行く」は「Go」と習ってきたと思うが、出発地点に意識がある言葉に思われる。説明が難しいが、次の文も参考に。

I wasn`t there

行かなかった(I did not goではない)

Take a break

休憩にしよう(日本語でもコーヒーブレイクと言う表現がある)

I am leaving

もう沢山(侮辱され部屋を立ち去るときのセリフであった)

So did I

おれもそうだよ

Is anyone here?

誰かいる?(捜索に入った刑事が拳銃を構えながら)

Get out my house

出て行ってちょうだい

I ought to know

直訳すると「私は知るべき」だが、「隠していることはないか」と字幕に出ていた。

 

次は疑問形の表現

May I ?

普通は動詞が続くが、省略しても場面で意味が相手に通じる

食べても?座っても?もう一つ食べても?

「May」はMay I help youのように使われる。「何かお困りですか」町の中で困っている外国人に話しかける言葉

What about?

何の話だ

What happens?

状況は(警部が殺人現場を訪れた時)

What` s next?

どうするの(「お次は何」では堅い)

What`s wrong?

どうした

What he was

人となり

What I am

それが私だ(直訳のような感じがする)

Why not?

いいわよ(これもよく出て来る。直訳すると「ダメな理由?」となるが、了解するときに使われる。

             

 

さいごにもう少し長い言葉

What can I do for you?

どうしました。要件は何だ

(犯人が刑事に職務質問されたとき、電話をかけた時相手が言う言葉でもある)

1992年アメリカに赴任したとき、電話をした相手から「What can I do for you」と言われたことが今でも思い出される。その時は、大変強い口調に聞こえ、電話したのがまずかったのかなと思った。相手に要件を聞く時に通常使われる表現のようだ。

What do you want ?

何の用だ、何か用か(犯人が職務質問された時、刑事に云うかなり乱暴な印象を与える)

How can I help you?

どんなご用ですか?質問をどうぞ、私にご用ね

(女性が使うことが多い丁寧な表現)

              (2019,2,3髙田忍)

現存十二天守を訪ねて

現存十二天守を訪ねて

現存天守(げんそんてんしゅ)とは、日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことである。このような天守が全国に12ある。2012年から7年の間に、そのすべてを訪ね天守閣に登ることができた。北から順にその姿を周辺の景色とともにアルバムにした。
きっかけは2011年11月に妻が亡くなり、時間の余裕ができたことである。その頃、自分は前立腺癌の治療を終え再発防止を願って西国33札所を参拝していた。それも岐阜県の谷汲山華厳寺を最後にすべて巡り終えていた。新たな目標として100名城を考えたが、名城の選定基準が不明確なこと、100カ所は不可能を思ったことなどから現存十二天守に絞った。

1. 弘前城(青森県)

東北の桜を見るツアーに参加したのは2016年4月のことであった。角館から始まり十和田湖、八幡平を経て弘前の旅であった。弘前城は石垣を修復するため、天守の曳家工事をしているところであった。お堀に散った桜がまるでじゅうたんを敷きつめたようであった。

 


2.松本城(長野県)

2013年9月、名古屋から中央線に乗り継いで上高地へ行った時に立ち寄った。一番よくとれている写真である。姫路城が白いのに対し、松本城の壁は黒く漆で塗られている。
松本には、明治9年に建てられた開智学校が保存されている。

 

3.丸岡城(福井県)

福井県坂井市にある。西宮から片道250キロ、名神高速道路、北陸自動車道で3時間かかった。柴田勝家が築いた城で現存天守の中では一番古い。昭和23年の福井大地震で倒壊したが、昭和30年に修復再建された。城の隣には「一筆啓上 日本一一番短い手紙の館」がある。

4.犬山城(愛知県)

訪れたのは2014年6月2日。その前日、歴史街道倶楽部山城の会で彦根にある石田三成の居城佐和山城跡を登った。米原から名古屋まで新幹線、名鉄犬山線に乗り換えて行った。駅から城下町の風情が残る街並みを歩いた。かなりの距離があった。
天守から見下ろす木曽川の風景が良かった。

 

5.彦根城(滋賀県)

滋賀県に生まれながら、彦根城へ初めて行ったのは最近のことである。2014年6月1日佐和山城跡に登った後、彦根城を見学、翌日犬山城へ向かった。その後、数回訪れている。翌年8月,琵琶湖ウォークに参加した際、お堀の周囲を歩いた。
彦根城は井伊家の城である。1604年初代直政の時普請開始、二代目直孝が完成(1607年)させた。天下普請といって全国の譜代大名に手伝わせた。
NHK大河ドラマは今年で57回、このうち井伊家が14回登場する。大老井伊直弼は8回。5代6度にわたり大老職を出し、譜代大名筆頭の家柄である。
井伊家は30万石で、近江国に28万石、佐野領(群馬県)に1万8千石、世田谷領に江戸賄料として2千石を持っていた。一石とは成人が一年間に消費する米の量である。約150キロ。
井伊家の官職は掃部頭(かもんのかみ)で、平安時代の律令制の官職名からきている。
赤穂事件の浅野内匠頭長矩も同じ律令の官職名がついている。


城の北側に国の名勝玄宮園という日本庭園がある。


遠くに竹生島がかすんで見える。


6.姫路城(兵庫県)

これまでに三回訪れた。修復前に一度、修復中の2013年2月7日、修復後の2018年11月である。前の二回は天守閣に上ったが、2018年は70歳代後半になり、その高さに圧倒され登ろうという気持ちが失せ見るだけとなった。その代わり、隣接の好古園という日本庭園に入った。紅葉が見事であった。

7.松江城(島根県)

2012年10月、玉造温泉に泊まった翌日に訪ねた。駅からバスに乗った。近くには小泉八雲の記念館がある。再び山陰線に乗り米子で下車、足立美術館を見学した。ここは行く価値がある。綺麗な日本庭園がある。



8.備中松山城(岡山県)

JTBの「岡山の城を巡る旅」に参加した。他に岡山城や秀吉の水攻めで知られる備中高松城跡を訪れた。現存天守12城の中で「山城」の形態をとるのは、備中松山城だけである。
シャトルバスが出ている。

9.丸亀城(香川県)

丸亀城は2012年6月12日に訪れた。車で山陽道を走り、倉敷から瀬戸大橋を渡って坂出で出た。その時の写真は残っていたがはっきり映っているのは大手門だけであった。そこで2018年12月2日に再度天守の写真を撮りにいった。今回は淡路島経由であった。紅葉がきれいであった。
丸亀城は石が記の名城として知られているが、今年の台風で崩れ修復工事が行われていた。
1658年京極高和が播州竜野から転封され明治まで続く。

 

 

10.松山城(愛媛県)

四国には前述の丸亀城を含めて四つの現存天守がある。JR四国バースデーチケットを利用して松山城、宇和島城、高知城を巡った。バースデーチケットとは誕生月に1万円で、三日間乗り放題できる便利なチケットである。2012年9月18~20日の二泊三日の旅であった。初日は道後温泉、二日目は高知のビジネスホテルに宿泊した。

予讃線松山駅で降り、坊ちゃん電車で道後温泉に向かう途中にある。




松山は俳人正岡子規の生まれた町である。



翌日、JRの電車で宇和島に向かった。


11.宇和島城(愛媛県)

駅から歩いて15分ほどの高台にある。天守からは宇和海が見える。
藤堂高虎が慶長元年(1596年)から6年かけて築いた城である。

12.高知城(高知県)

関ケ原の戦いの後、山之内一豊が入府した城である。観光案内の人が桂浜まで行って坂本龍馬の像を見ないかと近寄ってきたが、1966年8月に職場の仲間といったことがあるので断った。



帰りは高松まで戻り、岡山行きに乗った。

 

番外編

会津若松城(福島県)

雪化粧の会津若松城である。戊辰戦争の時籠城したと言われている。


熊本城(熊本県)

熊本地震の数カ月前に、長崎や阿蘇を訪れた際に立ち寄った。加藤清正が築城した。

(2019,1,3 髙田)

ヨーロッパのテレビ映画と日本製品

ヨーロッパのテレビ映画と日本製品

J・COMに加入したことから、ケーブルテレビが見られるようになった。もっぱら、探偵や刑事もの外国映画を英語の復習もかねて見ている。外国映画といっても、大半はイギリスの映画である。見ていて気のついたことは、日本製品が出て来ることだ。主なものはカメラ、自動車、電機製品である。思いもよらぬものが出てきたりする。

1.カメラ
カメラは日本製品しか出てこない。写真は上から順に、CANON、NIKON,PENTAXである。

 

2.自動車
イギリス映画に出て来る自動車はBENZ、BMW、VW、AUDIなどドイツ車が多い。
しかし、イギリスは日本と同じ右ハンドルの国なので日本車が登場する。先ずはトヨタから。トヨタはイギリスに工場がある。私服の捜査官が運転しているのはトヨタ車である。

 

 

DATSUNは日産のブランド名である。DATSUN トラックとして知られている。日産はサッチャー政権の頃、日本の会社では最初にイギリスに工場をつくった会社である。ゴーン元会長以前のことである。

MAZDAはヨーロッパでは意外とよく売れている。これはポーランド映画に出てきたMAZDAのタクシーである。ヨーロッパ大陸はイギリスと違って左ハンドルである。

自動車ではないがホンダの製品である。芝生の上を走っていた。

テレビ映画ではない実物の写真もある。かつてのイギリスの植民地マルタ島でみたいすゞのピックアップトラックである。マルタ島は地中海に浮かぶ小さな島でイタリア半島の南にある。2017年3月に旅行した時に撮影したものである。

三菱の車もあったので撮影した。

 

 

3.電機製品
これはアメリカ映画に出てきたSONYの録音機である。POLICEが盗聴した内容を録音する装置である。今はこのような大掛かりな録音装置はないと思う。



同じく録音する装置でPANASONICの留守電である。電話と録音装置は別になっている。

TOSHIBAのノートパソコンDYNABOOKである。会社の不祥事で事業は他社に売却されている。

4.その他
製品ではないが、パソコンの画面にひらがなが出てきた。よく意味の分からないものである。暗号解読の画面のようでもあった。

 

旭日旗が描かれたTシャツである。これもポーランド。


隣の国の一部の人からから反発が出そうだが、他の国では自然に受け入れらている。

以上