患者会で得たこと
―私たち夫婦の体験から―
高田 忍
妻の場合
1.妻に余命宣告
妻に病魔が襲ったのは2010年8月のことである。今でも忘れもしない8月6日、広島原爆投下の日の朝いつもより早く起きた妻が大阪の大学病院へ行くと言い残して出て行った。夜中に血を吐いたという。大阪の大学病院へ行選んだのは、10年近く感染性心内膜炎という心臓の病気で通っていたからである。
三日続けて行われた検査の結果、骨髄異形成症候群と診断された。血液癌の一種で骨髄の中にある血液を造る細胞が破壊され、赤血球、白血球、血小板が造れなくなるとい厄介な病気である。大学病院の病室が満室で自宅近くの市民病院に緊急入院することになった。
入院の翌日、医師は私たち二人を前にして「一年後の生存率20%」と余命宣告した。治療法はCAG(キャグ)という抗癌剤治療しかないとの説明である。事態を直ぐには受け入れることが出来ずパニックに陥った。妻はこの日の日記に「どん底」と気持ちを現わした。
2.患者会との出会い
これにさかのぼること8か月、その年の1月に私は前立腺癌と診断され、京都の大学病院へ通っていた。数カ月のホルモン注に続いてIMRTという放射線照射を受けることになっていたその矢先のことである。
京都の大学病院には癌支援センターがあり、そのコーナーに色々な癌患者団体のチラシが置かれていた。血液癌の患者会の集いがあることを知った。和歌山で行われた会合には家族として参加した。何人かの医師が病気や治療法についての講演をし、個別相談会では病気の説明や治療法を聞いた。製薬会社がスポンサーについていて、お土産のトートバッグをもらった記憶がある。その後、大阪本町のビルの一室で行われた患者と家族の懇談会にも参加し、お互いの悩みを語り合ったことがある。
3.朝ご飯一緒に食べましょう
京都の大学病院から戻ると、妻のもとへ洗濯物を届ける日がしばらく続いた。老老介護ならぬ病病介護と自分自身に言い聞かせていた。放射線治療を受けて、さらに妻のもとへ駆けつけるのは正直疲れた。幸い、抗がん剤の効果が出て入院から3カ月後には退院することが出来た。
その翌朝,妻は「これからは一緒に朝ご飯を食べましょう」と言って起きてきた。その日までは長年の生活習慣から、朝食は別々に食べていた。この日から二人で過ごす時間を増やすようにした。
ところが、年が変わると再び病状が悪化し、入院することになった。治療法は同じ抗癌剤治療であるという。
4.ある女性のアドバイス
同じ治療を続けて治るのか確信が持てなかった。そこで、名古屋の国立病院へセカンドオピニオンを聞きに行くことにした。名古屋を選んだのは骨髄移植で実績があり評判が良いと知ったからである。しかし結果は同じで医師の説明は変わらなかった。
この時、名古屋に住む女性が同行してくれた。母親が同じ病気で亡くなったという。医師との面接が終わった後、名古屋城近くの喫茶店で女性から患者である母との接し方についてアドバイスを求めた。
女性は「この病気は治らない。このことを前提に残った人生を楽しく送らせてやることが大切だ。母を温泉につれて行き、好きな刺身は火を通してたべさせるようにした」と反してくれた。この言葉は、それからの妻との接し方を考えるうえで大変参考になった。
5.カモミールおいしい
その後、妻は入退院を繰り返した。治療は輸血しか方法がなくなった。医師から感染症の危険があるので人ごみを避けるように言われていた。一週間に一度の通院は電車を使わず、車で国道二号線を走り神戸の病院へ通った。
輸血もなく早く終わった日にはスーパーに立ちより食材の買い物につき合った。買い物は主婦の楽しみの一つである。妻は鰤の照焼きが得意料理であった。遅くなる時は、近くのホテルに泊まり最上階のレストランで神戸の夜景を見ながらフランス料理を食べたりもした。身だしなみは女性にとって大切である。時には美容院へ送り迎えしたこともある。
そうしたことも手助けになったのかもしれない。心に安らかさが戻った。妻が残したメモがある。メモには「カモミールおいしい」と書かれていた。喉に通るものと言えば、ハーブティーしかなかったのである。一年どころか、17か月、発病から544日も生きてくれた。
それから、一年半後に闘病記「カモミールおいしい」を出した。
ご希望の方には無料で差し上げます。連絡先090-6905-0872
カモミールおいしい
私の場合
6.歪んだパソコンの枠
妻が亡くなって3年経った2014年8月も終わりの頃である。いつものように早朝パソコンに電源を入れた。パソコンの枠が歪んで見える。疲れのせいかとも思った。たまたまその二日あとに人間ドックで定期検診を受けることになっていた。これが幸いした。
眼科の診察室前に掲げられた医師の名前の札も歪んで見えた。医師にそのことを訴えると、早速翌週の水曜日に検査をすることになった。検査の結果、右眼が加齢黄斑変性であると告げられ、その日のうちにアイリーアの注射がなされた。
白内障、緑内障なら聞いたこともあるが、こんな病気の名前聞いたことがない。一体、どのような病気なのか良く分らなかった。その後一か月おきに合計3回受けた結果、しだいに安定状態を保つことが出来た。早期発見早期治療のお蔭である。
7.集いに参加
二回目の注射を受けに行った時、病院の待合室の掲示板を目が止まった。患者会の集いがあるポスターが貼られていた。早速、メールで世話役をしている東京の神谷さんに参加したい旨伝えた。中之島の大阪市中央公会堂で開かれた集いには多くの人が参加していた。東京の患者が体験を語り、星野さんの眼鏡の話もあった。早速、眼鏡の調整もしてもらった。暫く控えていた車の運転も再開した。
その後、1~2回関西での集いに参加したところ、翌年の2015年5月、神谷さんと星野さんから関西でも患者会を作るので世話人になって一緒に活動しないかと打診を受けた。
一つ返事でお受けすることにした。理由は二つあった。一つは妻の病気を通じて患者会の役割を知っていたからである。患者は、それぞれ医師から聞くことのできない貴重な経験を持っている。患者会を作って経験交流の場を設けることは必要なことだ。もう一つの理由は、定年後大学関係の仕事が少し残っていたが、75歳でこの仕事が終わる。しかし、少しでも世の中とつながりを持っておくことは自分自身のためにもなる。
そういう思いから引き受けることにした。その年の10月に関西黄斑変性友の会が会員数20数名で発足した。
第1回会合は12月に住友病院の講堂で、同病院の五味文先生から講演を聞くことから活動を始めた。
8.体験談集など情報発信活動に注力
右眼は早期治療の効果もあり安定した。左眼は問題がなく、右眼をカバーしてくれるので、日常生活に不自由を感じることはない。積極的に動くことを心に決めた。
患者会は医師から聞くことのできない体験を交流し合うことにあるとの考えから、それぞれの会員から体験を募り冊子を発行した。高齢者の医療制度など一般情報などをまとめた「サードオピニオン」というタイトルで出した。かなり費用が掛かり、年会費だけでは不足したので、会員の皆さんに寄付をお願いした所、多くの方から協力を頂き、大変うれしい思いをした。
iPS細胞の臨床研究に関する情報も精力的に集め、会員に伝えるようにした。NHKの健康番組の情報もいち早くキャッチし、放送予定日を会員に伝えるようにもした。
新聞やテレビなどの報道機関からの取材にも積極的に応じた。ホームページを立ち上げ、広く会員以外への情報発信に努めた。さらに外出を控えがちな会員のためにハイキングを企画し実施した。これには会員の家族のサポートがあった。
これらの活動の成果が実り、会員は関西だけでなく、全国に広がった。そこで、5月にはNPO法人に発展させより充実した活動を目指している。
9.飛鳥ハイキングで学んだこと
こうした中、昨年暮れに左目に異変が起こった。目の真ん中に薄い膜が貼っているようで字が読みにくくなった。先生に診てもらったが、加齢黄斑変性ではなく治療法はないとの診断である。右眼をカバーしていた左眼が役に立たなくなった。紙の新聞は文字が小さくて読めないの。タブレットを購入し大きな字なら読めるようになった。
1月30日、好天の中、奈良県飛鳥地方のハイキングを実施した。参加者は男女各4名ずつの8名であった。古代の都を歩いた。高松塚古墳、石舞台古墳、そして日本で一番古い仏教のお寺飛鳥寺を参拝し、奈良の大仏より古い大仏との説明をお坊さんから聞くこともできた。楽しい一日であった。
なによりも良かったのは、みんなで一緒に食べた昼食の時と帰りの電車に乗る前の喫茶店での懇談であった。大津から参加したFさん(男性)が話した音の出る時計やタブレットの幅広い使い方は大変参考になった。大阪から参加したHさん(女性は)、視力が0.01で杖を突きながら、支援者の助けを借りながら1万8千歩、約8キロを歩いた姿は感動的であった。それ以上にその感想の言葉が励ましになった。
「眼と足が不自由な者にとっては、一番楽なのは家にいる事です。でも外出すれば、足も使えば手も使う。そして不自由な眼も使う。すると脳が刺激され頭も使うことになる。これが元気を保つ秘訣です。」
大変勉強になった有意義な一日でした。
今迄は日常生活に不自由を感じなかったため、主に情報を送る立場のみを患者会の中においてきたが、これからは他の人の経験を積極的に取り入れる立場も考えに入れて、悔いのない人生が送れるようにしたいと考えている。