眼底写真から思うこと (眼底画像の見方)

眼底写真から思うこと

2019年2月5日、大阪の病院で3カ月ぶりに検診を受けた。いつもと同じように視力検査の他に断層写真と眼底写真が撮影された。今回は、加齢黄斑変性の右眼のほかに正常な左眼の撮影も行われた。幸い、今回も右眼は悪化しておらず、抗VEGF薬の注射はなかった。


下の表は2014年9月に発症して以来、暦年毎に注射の回数と、次の注射までの間隔を表したものである。前回の注射は2018年5月22日で9カ月間病状は安定していることになる。2016年には一度も注射がなかったのは、発症時の治療の効果が持続していたものと感がられる。その効果が薄れ2017年には4回も治療を受けた。


2018年5月以降の最も大きな生活上の違いはサプリメント服用の有無である。効果があったと判断している。

 

2014

2015

2016

2017

2018

2019

3

1

0

1

0

    8か月➡       20か月➡ 9か月➡サプリメント

 

 

下は右眼の眼底写真と断層写真である。医師の説明によると、眼底写真の色は網膜の厚さを等高線図のように表わしたものだという。緑色は正常な厚さであることを表し、白色は薄いことを示し水が溜まっていると考えられるという。この写真からは異常がないので、注射は必要ないと判断された

 

下は参考までに撮影された左眼である。右下の断層写真も異常は見られず、眼底写真も素人目にも正常なことがわかる。

 

次の写真は前回注射した9カ月前の2018年5月22日のものである。たしかに白い部分が大きく写っている。納得して注射をして貰った。

 



ところが、念の為に一昨年2017年4月21日の眼底写真をみた。この時は注射されたのである。一見した所、2月5日の写真と大きな違いは見られない。違いはといえば、この間に担当する医師が変わったということだけである。医師の判断にも個人差があるようだ。次の検査の時に、医師の判断基準を聞いてみようと思う。

 


この時から75歳以上の後期高齢者となり3割負担が適用され45400円支払っている。生命保険の手術特約も適用されなくなり負担と感じるようになった。それ以前は一割負担であったことことに加え、生命保険の手術給付金を一回当たり50000円を受け取ることができた。天と地の差がある。

サプリメントの価格
今回、注射をせずに済んだのはサプリメントの効果ではないかと考えている。発症して4年以上経過しているのに、治療をしなくて良い状態が続いているからである。2017年には4回も注射したことと比較するとサプリメントの効果を信じたい。


サプリメントはボシュロムジャパン社の「オキュバイト50+」である。同社から直接購入すると60粒(一ヶ月分)で3780円(税込み)で、3か月分に換算すると11340円となる。ところがアマゾンから三か月分を購入すると6800円である。アマゾンは大量仕入れの価格でボシュロム社から割安で入手しているようだ。この違いは大きい。

【注意】 以上は参考事例であり個人差により合わない場合があることもあります。服用にあたっては「眼科医とよく相談して服用を決めるよう」に願いします。


(2019,02,06 髙田 忍)

テレビ映画の活きた英語

テレビ映画の活きた英語

暇なときはテレビでイギリスの事件映画を見て過ごしている。フロスト警部とかモース警部という番組である。警部は英語ではChief Inspectorと呼んでいる。日本と同様、警察官に階級制度があり巡査、刑事、警部、警視正などそれぞれ異なる言葉が使われている。男性の警察官が女性の警察官に「お茶を入れてくれ」と頼んで、「私はあなたの部下ではない」と断られる場面が出てきたりして意外と面白い。

取調室はWitness waiting room、容疑者はSuspect、殺人犯はKillerで、証拠(Evidence)が揃い、事件(Case)が解決するとEnd of Story(一件落着)となる。聞き取れた英語をノートするようになったきっかけは、このEnd of Storyであった。英語をうまく四字熟語に置き換えている。他にもないかと思い書きとめるようになった。

耳で聴きとれた英語と字幕の訳を記録してきた。一単語から三単語程度の簡単な表現を整理したので紹介したい。

先ずは、単語一つの簡単なものから始める。

Yes ?

見知らぬ人から顔をじろじろ見られた時にいう「何?」。

何の用だ。(「はい」ではない。)

Well?

Yesと同じ意味。何だ。(語尾を上げて疑問形で話す)

Enough

うんざり(小言など十分聞き飽きた時)

Hell

ちくしょう(本来は地獄だが罵り言葉、日本人は使わない方が無難)

Indeed

いかにも(辞書には「実に、なるほど」と出ている)

Calm 

Calm down

冷静に、落ち着いて(興奮した人に対して)

Never

お断り(Noより強い否定言葉のようだ)

同じ意味の表現で「Absolutely not」があった。「まるでない」と訳していたが・・・

Over

おわりよ

Busy

後にして(忙しくて、かまっていられないので)

Problem

力を貸して(自分は問題を抱えている、だから助けてくれ)

Bingo

やったね

Nevertheless

とにかく(「それにもかかわらず」と覚えていたが、日常会話で言うことはない。「とにかく」はうまい訳だ)

 

 

 

次は単語二つからなる言葉

Very kind

うれしいわ(親切な人に対して、自分の気持ちを表現)

How kind

同じ意味だが、相手に感謝の気持ちを伝えているように思った

Fresh air

空気がうまい、外へ行こう、外へ出よう

(息抜きのために部屋の外へ出よう、かなりよく使われる表現)

Get away

来ないで

Hold on

電話をかけてきた相手に待たせる時にいう「待って」。Pleaseを付けると丁寧になる。

電話をかけ直すときはCall back、「電話をして」はCall me

Take care

お元気で(日本語の日常会話で「お元気で」ということはあまりと思う。別れる時に使うので「ではまたね」の方が近い

No idea

知らないわ

No way

とんでもない

Not bad

まあまあだ

That`s right

たしかに(類似の意味でAbsolutely、Correctも使われる)

Down here

こちらへ

Two minutes

すぐ行く(One secondという場合もある)

Trust me

大丈夫よ(元総理も使った言葉、本当に大丈夫?)

Grey are

微妙(白黒がはっきりしない灰色だから「微妙」となる。辞書には微妙はSubtleと出ているが、余り会話では使わないかも知れない)

Our fault

私達のせい(直訳すると我々の誤り)

Good luck

頑張れよ

Attention please

みんな聞いてくれ(空港の放送でも聞く言葉)

After work

仕事の後で、After Schoolは「宿題」と習ったと思う

Fifty fifty

(男女が)合意の上で、(盗んだ金を)山分けなど、比較的よく出て来る表現

Big mistake

悪かった

 

三つの単語

See you later

じゃあね(直訳は「後で会おう」)。明日会う時は「See you tomorrow」

「さようなら」の意味でGood Byeはあまり使わない。二度と会わない意味になる。

ついでに初対面の時「Nice to meet you」といい、二回目以降の時は「Good see you」と使い分けている。

Call you back

折り返し電話します

All of truth

全て本当のことだけ

Back to work

仕事に戻ろう

Let me alone

私にかまわないでくれ、ほっといて

End of story

一件落着(事件が解決したとき)

Not very much

というより

Not my fault

私のせいじゃない

On my way

すぐ行く(今、そちらに向かっている途中)

Everything we can

全力で(できる事は何でも)

You tell her

必ず伝えろ(「君が彼女に話す」と訳してはいけない)

Youを主語にすると命令口調になる。

学校英語で You had betterを習う。「あなたは〇〇した方が良い」の意味で婉曲表現と教える。むしろ「〇〇しなさい」の命令である。

相手に何かを頼みたい時は、前に「Would you mind○○」とか

「Could you please○○」の表現を使う方が良い。

Would you please tell her I will be thereのように使う。意味は「行くと伝えてもらえますか」。この文の「be there」に注意。「行く」は「Go」と習ってきたと思うが、出発地点に意識がある言葉に思われる。説明が難しいが、次の文も参考に。

I wasn`t there

行かなかった(I did not goではない)

Take a break

休憩にしよう(日本語でもコーヒーブレイクと言う表現がある)

I am leaving

もう沢山(侮辱され部屋を立ち去るときのセリフであった)

So did I

おれもそうだよ

Is anyone here?

誰かいる?(捜索に入った刑事が拳銃を構えながら)

Get out my house

出て行ってちょうだい

I ought to know

直訳すると「私は知るべき」だが、「隠していることはないか」と字幕に出ていた。

 

次は疑問形の表現

May I ?

普通は動詞が続くが、省略しても場面で意味が相手に通じる

食べても?座っても?もう一つ食べても?

「May」はMay I help youのように使われる。「何かお困りですか」町の中で困っている外国人に話しかける言葉

What about?

何の話だ

What happens?

状況は(警部が殺人現場を訪れた時)

What` s next?

どうするの(「お次は何」では堅い)

What`s wrong?

どうした

What he was

人となり

What I am

それが私だ(直訳のような感じがする)

Why not?

いいわよ(これもよく出て来る。直訳すると「ダメな理由?」となるが、了解するときに使われる。

             

 

さいごにもう少し長い言葉

What can I do for you?

どうしました。要件は何だ

(犯人が刑事に職務質問されたとき、電話をかけた時相手が言う言葉でもある)

1992年アメリカに赴任したとき、電話をした相手から「What can I do for you」と言われたことが今でも思い出される。その時は、大変強い口調に聞こえ、電話したのがまずかったのかなと思った。相手に要件を聞く時に通常使われる表現のようだ。

What do you want ?

何の用だ、何か用か(犯人が職務質問された時、刑事に云うかなり乱暴な印象を与える)

How can I help you?

どんなご用ですか?質問をどうぞ、私にご用ね

(女性が使うことが多い丁寧な表現)

              (2019,2,3髙田忍)

現存十二天守を訪ねて

現存十二天守を訪ねて

現存天守(げんそんてんしゅ)とは、日本の城の天守のうち、江戸時代またはそれ以前に建設され、現代まで保存されている天守のことである。このような天守が全国に12ある。2012年から7年の間に、そのすべてを訪ね天守閣に登ることができた。北から順にその姿を周辺の景色とともにアルバムにした。
きっかけは2011年11月に妻が亡くなり、時間の余裕ができたことである。その頃、自分は前立腺癌の治療を終え再発防止を願って西国33札所を参拝していた。それも岐阜県の谷汲山華厳寺を最後にすべて巡り終えていた。新たな目標として100名城を考えたが、名城の選定基準が不明確なこと、100カ所は不可能を思ったことなどから現存十二天守に絞った。

1. 弘前城(青森県)

東北の桜を見るツアーに参加したのは2016年4月のことであった。角館から始まり十和田湖、八幡平を経て弘前の旅であった。弘前城は石垣を修復するため、天守の曳家工事をしているところであった。お堀に散った桜がまるでじゅうたんを敷きつめたようであった。

 


2.松本城(長野県)

2013年9月、名古屋から中央線に乗り継いで上高地へ行った時に立ち寄った。一番よくとれている写真である。姫路城が白いのに対し、松本城の壁は黒く漆で塗られている。
松本には、明治9年に建てられた開智学校が保存されている。

 

3.丸岡城(福井県)

福井県坂井市にある。西宮から片道250キロ、名神高速道路、北陸自動車道で3時間かかった。柴田勝家が築いた城で現存天守の中では一番古い。昭和23年の福井大地震で倒壊したが、昭和30年に修復再建された。城の隣には「一筆啓上 日本一一番短い手紙の館」がある。

4.犬山城(愛知県)

訪れたのは2014年6月2日。その前日、歴史街道倶楽部山城の会で彦根にある石田三成の居城佐和山城跡を登った。米原から名古屋まで新幹線、名鉄犬山線に乗り換えて行った。駅から城下町の風情が残る街並みを歩いた。かなりの距離があった。
天守から見下ろす木曽川の風景が良かった。

 

5.彦根城(滋賀県)

滋賀県に生まれながら、彦根城へ初めて行ったのは最近のことである。2014年6月1日佐和山城跡に登った後、彦根城を見学、翌日犬山城へ向かった。その後、数回訪れている。翌年8月,琵琶湖ウォークに参加した際、お堀の周囲を歩いた。
彦根城は井伊家の城である。1604年初代直政の時普請開始、二代目直孝が完成(1607年)させた。天下普請といって全国の譜代大名に手伝わせた。
NHK大河ドラマは今年で57回、このうち井伊家が14回登場する。大老井伊直弼は8回。5代6度にわたり大老職を出し、譜代大名筆頭の家柄である。
井伊家は30万石で、近江国に28万石、佐野領(群馬県)に1万8千石、世田谷領に江戸賄料として2千石を持っていた。一石とは成人が一年間に消費する米の量である。約150キロ。
井伊家の官職は掃部頭(かもんのかみ)で、平安時代の律令制の官職名からきている。
赤穂事件の浅野内匠頭長矩も同じ律令の官職名がついている。


城の北側に国の名勝玄宮園という日本庭園がある。


遠くに竹生島がかすんで見える。


6.姫路城(兵庫県)

これまでに三回訪れた。修復前に一度、修復中の2013年2月7日、修復後の2018年11月である。前の二回は天守閣に上ったが、2018年は70歳代後半になり、その高さに圧倒され登ろうという気持ちが失せ見るだけとなった。その代わり、隣接の好古園という日本庭園に入った。紅葉が見事であった。

7.松江城(島根県)

2012年10月、玉造温泉に泊まった翌日に訪ねた。駅からバスに乗った。近くには小泉八雲の記念館がある。再び山陰線に乗り米子で下車、足立美術館を見学した。ここは行く価値がある。綺麗な日本庭園がある。



8.備中松山城(岡山県)

JTBの「岡山の城を巡る旅」に参加した。他に岡山城や秀吉の水攻めで知られる備中高松城跡を訪れた。現存天守12城の中で「山城」の形態をとるのは、備中松山城だけである。
シャトルバスが出ている。

9.丸亀城(香川県)

丸亀城は2012年6月12日に訪れた。車で山陽道を走り、倉敷から瀬戸大橋を渡って坂出で出た。その時の写真は残っていたがはっきり映っているのは大手門だけであった。そこで2018年12月2日に再度天守の写真を撮りにいった。今回は淡路島経由であった。紅葉がきれいであった。
丸亀城は石が記の名城として知られているが、今年の台風で崩れ修復工事が行われていた。
1658年京極高和が播州竜野から転封され明治まで続く。

 

 

10.松山城(愛媛県)

四国には前述の丸亀城を含めて四つの現存天守がある。JR四国バースデーチケットを利用して松山城、宇和島城、高知城を巡った。バースデーチケットとは誕生月に1万円で、三日間乗り放題できる便利なチケットである。2012年9月18~20日の二泊三日の旅であった。初日は道後温泉、二日目は高知のビジネスホテルに宿泊した。

予讃線松山駅で降り、坊ちゃん電車で道後温泉に向かう途中にある。




松山は俳人正岡子規の生まれた町である。



翌日、JRの電車で宇和島に向かった。


11.宇和島城(愛媛県)

駅から歩いて15分ほどの高台にある。天守からは宇和海が見える。
藤堂高虎が慶長元年(1596年)から6年かけて築いた城である。

12.高知城(高知県)

関ケ原の戦いの後、山之内一豊が入府した城である。観光案内の人が桂浜まで行って坂本龍馬の像を見ないかと近寄ってきたが、1966年8月に職場の仲間といったことがあるので断った。



帰りは高松まで戻り、岡山行きに乗った。

 

番外編

会津若松城(福島県)

雪化粧の会津若松城である。戊辰戦争の時籠城したと言われている。


熊本城(熊本県)

熊本地震の数カ月前に、長崎や阿蘇を訪れた際に立ち寄った。加藤清正が築城した。

(2019,1,3 髙田)

ヨーロッパのテレビ映画と日本製品

ヨーロッパのテレビ映画と日本製品

J・COMに加入したことから、ケーブルテレビが見られるようになった。もっぱら、探偵や刑事もの外国映画を英語の復習もかねて見ている。外国映画といっても、大半はイギリスの映画である。見ていて気のついたことは、日本製品が出て来ることだ。主なものはカメラ、自動車、電機製品である。思いもよらぬものが出てきたりする。

1.カメラ
カメラは日本製品しか出てこない。写真は上から順に、CANON、NIKON,PENTAXである。

 

2.自動車
イギリス映画に出て来る自動車はBENZ、BMW、VW、AUDIなどドイツ車が多い。
しかし、イギリスは日本と同じ右ハンドルの国なので日本車が登場する。先ずはトヨタから。トヨタはイギリスに工場がある。私服の捜査官が運転しているのはトヨタ車である。

 

 

DATSUNは日産のブランド名である。DATSUN トラックとして知られている。日産はサッチャー政権の頃、日本の会社では最初にイギリスに工場をつくった会社である。ゴーン元会長以前のことである。

MAZDAはヨーロッパでは意外とよく売れている。これはポーランド映画に出てきたMAZDAのタクシーである。ヨーロッパ大陸はイギリスと違って左ハンドルである。

自動車ではないがホンダの製品である。芝生の上を走っていた。

テレビ映画ではない実物の写真もある。かつてのイギリスの植民地マルタ島でみたいすゞのピックアップトラックである。マルタ島は地中海に浮かぶ小さな島でイタリア半島の南にある。2017年3月に旅行した時に撮影したものである。

三菱の車もあったので撮影した。

 

 

3.電機製品
これはアメリカ映画に出てきたSONYの録音機である。POLICEが盗聴した内容を録音する装置である。今はこのような大掛かりな録音装置はないと思う。



同じく録音する装置でPANASONICの留守電である。電話と録音装置は別になっている。

TOSHIBAのノートパソコンDYNABOOKである。会社の不祥事で事業は他社に売却されている。

4.その他
製品ではないが、パソコンの画面にひらがなが出てきた。よく意味の分からないものである。暗号解読の画面のようでもあった。

 

旭日旗が描かれたTシャツである。これもポーランド。


隣の国の一部の人からから反発が出そうだが、他の国では自然に受け入れらている。

以上

北の島 南の島

北の島 南の島

70歳までに仕事や観光で47都道府県の内、45の都府県に行った。残っていたのは北海道と沖縄である。北海道には5年前の6月初め、沖縄には今年12月に旅し、目標を達成することができた。北海道では礼文島と利尻島、沖縄では宮古島を訪ねた。この二つの島は約3000キロメートル離れている。

 

礼文島


礼文島の名を知ったのは小学校5年か6年の国語の教科書である。この島で金環日食があったことを知った。調べてみると昭和23年5月9日のことである。それ以来この島の名前を忘れたことがなく、どんなところかと興味を持ち続けてきた。大阪空港家から羽田で乗り換え、稚内まで飛ぶ。稚内から船に乗った。
早朝に稚内港を出港し昼前には島に着いた。昼食は、うに丼ぶりで新鮮で美味しかった。
バスで北の方に進むと、ここが金環日食を観測した場所との説明があった。また島には信号が一つしかないとのことであった。
写真は礼文島の中で絶景ポイントといわれる澄海岬(すかいみさき)である。曇っていたので海の青さが見られないのが残念であった。

 

花の島
名前は調べていないが、6月上旬のことで、高山植物系の花が咲き乱れていた。

 

 



利尻島
礼文島の南に利尻島がある。そこには利尻富士が聳えている。ニシン漁が盛んだったころ、北陸をはじめとして本土から人々が漁師として住みついた。かつては栄えたところである。
利尻昆布でも知られている。

 

 

宮古島

宮古島はサンゴ礁が隆起してできた島で、島全体が珊瑚の石灰岩に覆われていまる。石灰層は水が浸透する速度が早いため宮古島には川がない。ダムも地上にはなく地下ダムである。高い山もない。
台湾まで400キロメートル。樺太まで40キロの礼文島とは異なり緊張感はなかった。

サトウキビ畑

関西空港から直行便があり、約3時間かかった。空港を出ると、一面サトウキビ畑である。穂がまっすぐに伸びると収穫時期だそうだ。苗を植え付けたばかりのものや、収穫間近のものが混在していた、おそらく農作業を分散させるためではないかと思った。
島全体が石灰岩のため、水田でのコメ作りができない。日本酒も本土から運ぶことになるので高価な飲み物であった。

 

 

青い海とサンゴ礁
何といってもすばらしいのは青い海である。。川がないので泥や土が海に流れ込まない。地中海やエーゲ海より青さが澄んでいるように思った。島の周りの黒っぽいのがサンゴ礁。白波が立っているところもサンゴ礁で浅くなっている。防波堤の役目も果たしているそうだ。

 

 

サンゴ礁の魚
水中観光船に乗り45分間、海中の様子を見ることができた。海岸から100メートルもない所にサンゴ礁があり、たくさんの魚が泳いでいた。ウミガメも姿を現した。時々息をするために水面に出て来る。
巨大な鯵が船に近寄ってきた。水深は5メートルから10メートルで、水族館にいるようであった。

 

 

うえのドイツ文化村
この美しい海岸に、ドイツライン川沿いにそびえる城が立っている。名前は「文化村」だが、むしろ「友好村」の方がふさわしい。説明によると明治6年(1873年)7月12日、付近を航行していたドイツ商船が台風に遭遇し座礁難破した。村民が救助、手厚く看護して本国に帰国させた。船長から報告を聞いたドイツ皇帝ウィルヘルム2世が村民の博愛精神を称え「博愛記念碑」を建立した。その友好を記念して、1996年に城の形で記念館が作られた。日曜日というのに訪れる人は少なく、維持費が大変ではないかと心配した。
ドイツに二年間駐在したが、誰も親しく接してくれたのは、この出来事が影響しているのかもしれない。
残念ながら、和歌山沖のトルコ軍艦の救助ほどには知られていない。

 

花や蝶
大阪の温度が2~3度の時、ここでは20度もあった。さすが、セミは鳴いていなかったが、12月というのに草むらから虫の音が聞こえた。植物は大きく成長する。写真の赤い実はヤシの実である。大きな葉のクワズイモも自生していた。
熱帯性の花に蝶が蜜を吸っていた。蝶は飛び回るのでカメラにとらえるのが難しかった。

 

 

 



先祖崇拝
本土とは異なり立派な墓がある。仏教は伝来せず、先祖崇拝がこの地の宗教である。墓は家ごとではなく一族ごとにあるそうだ。骨壺は一つだけあり、次の人がなくなると、前の人は土に帰る。

 

 


(2018,12,20 髙田 忍)

「入口」と「でぐち」

「入口」と「でぐち」


この写真は大の御堂筋の堂島川に架かる橋から西の方に向かって撮影したものである。左手前の低いビルは日銀大阪支店である。
この橋の名前は大江橋という。橋の両端にはその名前の銘板が付けられている。よく見ると、南詰には漢字で「大江橋」、北詰めにはひらがなで「おほえはし」と書かれている。


東京日本橋を起点にして、近い方には漢字で、遠い方にはひらがなで書くことになっているそうである。これはトンネルの名称も同じで、日本橋を基準にして近い方が入口で漢字、遠い方が出口でひらがなで書くこと決まりである。


但し、日本橋を基準にするのが難しい場合は、その道路の起点で判断することになっている。

 

堂島川

南詰

 

北詰

 

 

 

この高速道路は横浜市内のバスの中からで撮影したものである。白い線が引かれているが、この長さは8メートルと決められている。バスがすっぽり入る長さである。白線と白線の間は12メートルである。
一般道ではそれぞれ5メートルと決まっている。

滝にも色々

滝にも色々

濃溝の滝(千葉県)
房総半島のツアーに参加した。羽田空港から東京湾のアクアラインというトンネルを抜けると、そこは千葉県木更津である。千葉県には、全国に知られた名所旧跡があるわけではない。無理に作ったとしか思えない観光地のひとつが濃溝滝(のうみぞのたき)である。落差は殆どない。この洞穴から流れる小さな滝が時間帯によってハート形になるという。インスタ映えで広がり、観光客が訪れるようになったという。季節によっては周辺のホテルは予約でいっぱいになるという。この時は残念ながら、そのような光景は見られず、訪れる人も少なかった。水がきれいなため夏には蛍が飛び交うそうだ。


この機会に今まで、訪れたことのある滝の写真を集め整理することにした。
観光名所がないとはいえ、例外は内房総から見える富士山であった。
左は10月29日午後4時半過ぎ日没前の光景である。南房総の冨浦で撮影した。もう少し時間がたち、日没が過ぎると富士山が黒くかびあがるという。
右は鋸山からの富士山である。

 

 

 

白糸の滝(長野県)
今年8月に、長野と群馬を旅行した。新幹線で岐阜羽島まで行き、バスに乗る。長野県阿智村で星空を見るのが目的であったが、生憎の空模様で、満天の星は見えなかった。雲の間から火星や土星が顔を出していた。
翌日万座温泉(群馬県)に宿泊した後、北軽井沢にある白糸の滝を立ち寄った。ここは涼を感じられるためか、多くの観光客で賑わっていた。浅間山に降った雨が地下にしみこみ6年後に地上に出てきたのがこの滝である。信濃川に注ぐ。濃溝の滝に比べると落差もあり幅も広く滝らしくなる。土産物屋ではイナゴの佃煮が売られていた。

華厳の滝(栃木県)
昨年秋に訪れた華厳の滝は新婚旅行以来の二度目であった。日光にあり、中禅寺湖から流れ出た川が滝になる。有名な滝なので説明はいらないと思う。写真は下から見たものである。

那智の滝(和歌山県)
南紀勝浦の洞窟の温泉へ車で行った後、立ち寄った。熊野神社には参拝せず滝だけを見に行った。帰りは奈良県十津川村を通ったが、道幅が狭いうえカーブが多く緊張の連続であった。

イグアスの滝
数年前、南米ツアーに参加し訪れた。成田からロスアンジェルス経由でペルーのリマで乗り継ぐ長旅であった。自宅を出てイグアスの滝近くのホテルへ着くまで48時間、まさに地球の裏側であった。
この滝はブラジルとアルゼンチンの国境にあり、アマゾン川に注ぐ。日本の滝とはスケールが違う。ヘリコプターで上空から見るオプションツアーが用意されたが、万一の事故を思い参加しなかった。水飛沫がカメラに入り故障してしまった。
上の二枚はブラジル側から、下はアルゼンチン側から撮影した。熱帯性の動物や植物がみられた。



 

 

 

 

 

 

ナイアガラの滝
1997年に家族で旅行した。単身赴任でアメリカのデトロイトに駐在していた頃、妻と娘を呼び寄せた。ボストンの空港で待ち合わせ、レンタカーを走らせた。初日はタングルウッドという町で行なわれる音楽祭で、小澤征爾指揮のコンサートを聴いた。
雨合羽を着てボートに乗り、滝つぼの近くまで行った。ナイアガラはカナダとアメリカの国境にある。上流が五大湖のエリー湖、下流がオンタリオ湖である。アメリカ人によると新婚旅行で行く所だそうだ。世の中にデジカメがない時代の写真で少し色褪せているが、虹がはっきりと見える。
ナイアガラでレンタカーを返し、カナダ側に入った。鉄道で北上、モントリオールで一泊、さらにケベックでは行き英国女王が泊まったという有名ホテルに宿泊した。そのあとは飛行機で「赤毛のアン」で知られるプリンスエドワード島まで行った。これが唯一の家族3人揃っての思い出の旅行である。

髙田忍(2018,11,02)

「友の会」を通じて広がる友の輪

「友の会」を通じて広がる友の輪

 「もう友人でないかも」

 アメリカのトランプ大統領が、日本のテレビや新聞に登場しない日はない。この一文を書いている10月13日(土)午後7時のNHKニュースでも、中間選挙の情勢を伝える中で登場した。世界で最も経済力と軍事力を背景にした国の大統領の言動は世界に大きな影響を与えるから、当然といえば当然だ。その一言で、トルコの通貨リラが暴落するほどの影響力がある。

 最も注目を集めている最近のニュースといえばアメリカの中国に対する関税制裁であろう。アメリカは巨額の貿易赤字の主たる原因が中国にあるとして、中国からの輸入製品に対して高率の関税を課して制裁することになった。中国もこれに対抗してアメリカからの輸入製品に対して高率の関税を課した。この二つの国の争いは貿易戦争とまでいわれるようになった。

 今から30年ほど前の1980年代後半、日本とアメリカの間でも貿易上の紛争があった。燃費がよく性能も優れた日本の小型自動車がアメリカの消費者に好まれ、BIG3といわれたアメリカの自動車が売れなくなった。失業者が増え日本車の打ちこわし運動や日本人と間違えられた中国人が殺される悲劇も起こった。このような時でも貿易戦争という言葉は使われず、貿易摩擦という表現にとどまっていた。

 トランプ大統領が「習近平主席はもう友人でないかもしれない」との趣旨の発言をしたとのニュースの接し、いささか驚いている。今まで習近平主席とは友人の関係であったかのように理解できるからだ。Friendといったのか定かではないが、私の経験からはFriendはかなり限定した使われ方をする。

 

友人と知人

 日米間で貿易摩擦といわれた頃、勤務していた会社では自動車部品関連の事業部に所属していた。二年間ほど購買課長をしたことがある。自動車部品に使用する部品を調達するのが主な仕事で、多くの仕入れ先の人と接する機会に恵まれた。その中に、アメリカのデトロイト近郊に本社を置く会社から購入する部品があった。年二回セールスで訪れてきた営業部長とは、英語の勉強にもなるのでその夜は食事をして親睦を深める間柄となった。所謂接待を受けた。阪神タイガースが1985年に優勝した日、大阪梅田で食事をした後ホテルまで送って行く途中、喜びのファンに出くわしたことを今でも思い出す。

 アメリカとの貿易摩擦を回避するため、日本の自動車会社の多くは北米に工場を建設し現地供給することになった。それに従って部品メーカーも米国に進出し工場を建てた。1992年1月アメリカのデトロイトに現地事務所の責任者として赴任することになった。早速住むところを探さなければならない。そこで、かねてから親交のある営業部長に相談した。彼はワンフロア200平米もあるアパートを紹介してくれた。休日には自宅に招き、ときにはゴルフを共にし単身赴任の私につき合ってくれたこともある。そのため、私は彼を友達のように思うようになった。

 赴任後しばらくしてバージニア州の工場を見学する機会があり同行してくれた。案内してくれた工場の人に、私は「彼とは長年のFriend」と思わず言ったことがある。すると営業部長は即座にこれを否定した。かなりきつい口調で「友人(Friend)ではない。知人(Acquaintance)だ」と。この言葉は25年以上経った今日に至っても未だに忘れることが出来ない。この時初めて英語では友人と知人を峻別していることを知った。ビジネスの世界では仮に親しく(friendly)なっても友達とはみなさない。一線を画す態度にむしろ感心した。トランプ大統領の「友達」発言を聞いて、習近平主席を友達として見ていたことに納得できない理由はここにある。あくまで国益を優先する政治の世界のつき合いに過ぎないからだ。

 

家族ぐるみの親交10数年

 これまでの77年の人生で友人と呼べる人はそれほど多くはない。36年間の会社時代に出会った人で友人と思える人はいないし、定年後も付き合っているような人はいない。その理由は、会社時代の同期生は、互いに会社内で競争を意識する関係ではないかと思う。結果は定年時点での会社内での地位となって表れる。

 僅か四年間の学生時代に出会った人は会社時代とは関係が異なる。学生同士には競争関係はない。卒業後の進路はそれぞれ異なるからであろう。60歳定年を過ぎた十数年前頃、関西に住むクラス仲間達が互いに声を掛け合い誘い合って親交が始まった。数年後には伴侶を入れた家族ぐるみ十数名の会に発展した。もう15年以上続いている。幹事は持ち回りで春と秋にハイキング、桜や紅葉を楽しんだ後懇親会で盛り上がる。ときには一泊旅行もする。軽井沢や伊豆の他奥びわ湖に泊まったことがある。今年の春は奈良県吉野の桜見物、秋は西播磨たつの市散策と赤穂温泉での一泊が予定されている。

 数年前、N夫人がこれまで勉強したことを披露してはとの提案があり、懇親会の前にレクチャー行うことになった。今年の秋は自分が幹事で、赤穂に因んで「忠臣蔵」の話をすることにし、ゆかりの地を訪ねてきた。既に東京の吉良邸跡や泉岳寺に行ってきた。

 

友達の輪

 ずいぶん前置きが長くなった。3年前に関西黄斑変性友の会が発足した。会の名前には「友の会」が付けられている。発足当初はその意味をあまり深く考えなかった。

 二年目を過ぎた頃、名前の由来は同じ病気で悩む人同士が友達になる会ではないかと思うようになった。会員同士には会社の社員同士のような利害や競争関係はない。そこで、お互い親しくなる方はないかと考えた。「歩こう会」と称して明日香村や海津大崎など関西各地のハイキングを企画、また開設された神戸アイセンターの見学会などを積み重ねて行った。

 その結果、会員同士の友達としての付き合いが少しずつ始まっている。定例会で隣同士の席に座った人がいる。他府県にまたがる二人の女性会員はその後も電話をかけあい再会を心待ちにしていると聞く。体験談を電話してきた人から、近くに住む人はいないかと聞かれことがある。同じ県内の人を紹介したところ、「最近会ってお互い励まし合おうと話し合った」とのお便りをいただいた。友の会に携わって、このように友達の輪が次第に広がっていくことを知ることほど嬉しいことはない。

(2018,10,13髙田忍)

バランスの取れた生活で認知症を防ごう

バランスの取れた生活で認知症を防ごう

 

 大阪大学大学院医学研究科池田学教授の講演「認知症の予防と治療」を聴く機会があった。以下はその要約である。

 

 「一番なりたくない病気は何か」というアンケートを取ると、癌ではなく認知症という結果がでる。2011年の調査によると、全国で認知症患者は462万人、予備軍は400万人であった。現在ではそれぞれ500万人と推定されている。

 高齢者の比率が増加しているので、今後も増えると思われる。65歳以上の高齢者は、大阪万博の年1970年には7%で高齢化社会といわれた。1994年に14%と倍増し高齢社会、2005年には20%となり超高齢化社会となった。その上、65歳以上の一人暮らしの人の比率は毎年右肩上がりで上昇している。

 物忘れ、うつ病、せん妄、健忘症、失語症で病院を訪れる人がいる。これは必ずしも認知症ではない。認知症と正常老化の違いを比較すると次のような表になる。

 

認知症

正常加齢

原因

病気

加齢

自覚

なし

あり

記憶

経験自体いえる

明確に思い出せない

社会生活

困難

支障なし

 

 認知症に至らない症状に「せん妄」がある。これは軽い意識障害で意識水準が低下する。この原因は薬にある。抗不安薬、抗うつ薬、睡眠薬、筋弛緩剤、利尿薬、抗がん剤、ホルモン剤が影響する。二つ以上の病院で治療を受ける場合は、薬手帳を示すなどして注意する必要がある。

 認知症の危険因子は加齢である。5歳ごとに倍増する。75歳から79歳では5%の人が認知症であるが、80歳~89歳は30%、90歳~94歳は60%となる。

 それでは認知症は予防できるか。原因は脳梗塞である。脳梗塞は早期発見、早期治療で予防できる。頭部CTで梗塞があると判断すれば、大きな血の塊を取り除く手術を受けることが出来る。

 喫煙、大酒、高血圧、糖尿病、脂質異常、心臓病、痛風は脳梗塞の予備軍である。

 脳梗塞のなりかけには、意欲が低下する。たとえば外からヘルパーさんが来ている時は、家事もできるが、一人になると何もできない。閉じこもりになる。昔は、家族が多く体を動かさざるを得なかった。寝転んでいると孫が心配して声を掛けるようなことがあった。一人暮らしの増加で家族の支えが減ってきた。それに替わるのがデイサービスである。(体も動かし、緊張もするからだと思う)

 肥満や糖尿病に注意し適度な運動が必要である。閉じこもりは運動量が低下する。読書やテレビを見て知的活動をするなどバランスのとれた生活をするように心掛けるべきである。

 以上が講演の要約である。

 加齢黄斑変性の患者は、外出時の転倒を恐れ自宅に引きこもりがちにならないようにしたほうがよいと思う。バスや電車に乗って外出すれば、体を動かすし緊張もする。外の世界の刺激も得られると思う。友の会の企画する定例会のほか、歩こう会や見学会多くの人の参加を期待している。 (髙田 忍)

 

トルコとギリシャの旅

 トルコとギリシャの旅

(2018,9,9~9,18)

なぜトルコとギリシャ

トルコとギリシャのツアーに参加した目的は、一つにはテレビで見たトルコの岩だらけのカッパドキアを見たかったこと、もう一つは世界史で習ったアテネのパルテノン神殿を見たいからであった。

 

エアバスA380で

9月4日に襲来した台風21号で関西空港の国際線滑走路が水を被り閉鎖された。9月9日の出発が危ぶまれたが、7日になり成田、バンコク経由で出発するとの連絡があった。かなり体力的に疲れると思ったが、準備してきたこともあり参加することにした。

新幹線品川駅で下車し、成田エクスプレスに乗り換えた。成田からバンコクまではANA、バンコクからエミレーツ航空である。機種はエアバスA380で、一階はエコノミー席、2階がビジネスクラスであった。二階後方にラウンジもありシャワーの装置もある。ラッキーであった。近く大阪ドバイ間に就航することになっている。

 

トルコ国内はバスで移動した。VIPとフロントに書かれていたが、シートベルトの不具合やトレーが壊れていて、EU基準を満たしているか疑問であった。

カッパドキアでは洞窟内のホテルに宿泊した。

カッパドキアからはかつてのシルクロードを西進した。隊商宿やイスラム色の強いコンヤを経由して次の温泉町までは600キロを超える長旅であった。早朝に出発してホテルには9時に着き、荷物を部屋に置く前に夕食という強行軍であった。

トルコからギリシャはエーゲ海の島々を巡るクルーズ船に乗った。船室は窓側にアップグレードされたが、スーツケースを置くのに一苦労する狭さでエアコンも効かないありさまでとても快適とは言えない。

帰りは関空に到着、回復の速さに感心した。リムジンも運行しており思ったより一時間早く帰宅できた。

強行軍の旅で体力的には疲れたが、気軽に話しかけてくれる人と巡り合い楽しい旅となった。旅は道連れ、世は情け。

 

 

文字

イスタンブールの二日目、文字がすべてアルファベットであることに気付いた。これまでイスラムの国ではアラビア文字が使われていると思い込んでいた。ガイドに質問すると、1923年にアルファベットが採用されたという。目的の一つは識字率の向上であったという。オスマントルコは第一次世界大戦で敗れ、トルコ革命がおこった。指導者のケマルは政教分離、ローマ字採用、女性参政権など近代化政策を進めた。

言葉には英語の影響とみられるものもあった。SIGARAは煙草のことと推測できる。

ギリシャでは勿論古代からのギリシャ文字である。αβγなどの小文字は数学で習うが、大文字はよく分らない。写真はアテネ市内のタクシーの文字である。屋根に「TAΞI」と書かれていた。Ξは「くし」と読む。町中の標識はギリシャ語と英語が併記されていて旅行者には親切である。

 

トイレ

エミレーツのラウンジはバンコク、ドバイ共にTOTOの製品を使っていた。トイレットペーパーの先端を三角に折るのは日本人のおもてなしの現れであると何かで読んだが、このラウンジはじめインスタンブールのホテルでも三角に折られていた。ある日本人の思い込みに違いない。

トルコでは、都市部のトイレは洋式であったが、地方には和式が多かった。どちらを向いて用を足すのか良く分らず手すりもなく不便この上ない。

ギリシャのクレタ島のCaféで、無料で貸してもらったトイレは紙が流れない。よく見ると紙を流さないようにとの英語の注意書きがあった。この点では南米ペルーの首都の一流ホテルと変わらない。

手を洗う蛇口の栓は、日本では上に上げるのと下に下げるのが混在しているが、トルコではすべて上に上げるものであった。

トイレの男女表記では、単数のもの複数のものが混在していた。複数の人が利用するのでMen、Womenが正しい。日本でも誤表記が多い。

 

人人人、車車車

インスタンブールでもアテネでも車が渋滞していた。インスタンブールでは、車道でペットボトルの水を売る少年がいた。まるで20年前のメキシコのようだった。アテネでは車の間をバイクがすり抜けていく。これだけ車が多くても、日本車は少なかった。おそらく高い割には高級感のない中途半端な車と思われているのかもしれない。

人の多さにも閉口した。エーゲ海に浮かぶサントリーニ島は日没がきれいなことで有名で、小さな村にはその光景を見に多くの人が押し寄せた。狭い道は人でごった返し、そのうえ石畳で歩きにくく足の裏が痛くなった。またアテネのパルテノン神殿の見学通路は満員の地下鉄のように身動きが取れないほどであった。

 

日の出と日没

カッパドキアの風景と日の出と日没

 

サントリニーア島(エーゲ海)の風景と日没

キリスト教とイスラム教

この地は、先ずギリシャ文明が栄えたあとローマ帝国が支配する。西ローマ帝国が滅びた後も東ローマ帝国がキリスト教を国教にしてコンスタンチノープルを首都にして栄える。そこにイスラムのオスマントルコが侵入するという歴史をたどった。

インスターブールのアヤソフィアはキリスト教会であった。オスマンが侵攻した後キリスト像を残してイスラム教の寺院になった。今は両者の共存を願って博物館になっている。その隣に立つブルーモスクは、1000年後に建てられたが、規模は大きいがアーチの大きさでアヤソフィアに及ばない。

カッパドキアには、ギョレメ野外博物館があった。所謂隠れキリシタンのいた洞窟である。壁に描かれたキリストの目や顔がえぐり取られていた。見つめるイスラム教徒が見つめると、改宗することを恐れたからとの説明であった。

 

トルコ商人

エジプトバザールをはじめ立ち寄った土産物店では日本語で「二個千円」と何とかの一つ覚えで迫って来る。なによりもカッパドキアの絨毯と最終日のレザーの店の営業マンの巧みな日本語を使っての商魂の逞しさには感心した。その熱意につい買ってしまうことになった。

先日NHKで、絨毯とカーペットは同じか違うかのクイズをしていたが、日本語か英語かの違いに過ぎない。写真ではよく分らないが門のところに「Carpets」と書かれていた。

絨毯を織るのは主婦の仕事で、訪れた洞窟に住む民家に織る器械が置かれていた。最近の若い女性は他の仕事を求めて、絨毯織はしなくなったという。この民家は四代目で先祖伝来の絨毯が敷かれていた。岩の上であったが、足が痛いと感じる事はなかった。洞窟に住む家族は5家族のみで、政府が世界遺産を理由に追い出しにかかっているそうだ。

レザーの店では、ファッションショウの後セールスマンが近寄ってきてコートを買う羽目になった。薄くて軽いのがセールスポイントである。いよいよ20年前に買ったコートとお別れすることにした。

 

 

遺跡と歴史

バムッカレはトルコ南西部の温泉地である。ホテル内に露天風呂があった。中国人女性が写真を撮ってくれた。

近くに石灰棚があり、温泉がローマ時代の療養所になっていた。石灰棚は雪山のようである。

美の女神に由来するアフロディスィアスの遺跡

アフロディシアスは、紀元前2世紀から6世紀まで栄えた古代ギリシャ・ローマ時代において最も壮大な都市のひとつといわれている。トルコ人学者が生涯をかけて発掘した。遺跡内には学者の墓があった。

エフェソス遺跡

エフェソス(ギリシャ語:Έφεσος, ラテン文字表記:Ephesos/Ephesus)は、トルコ西部の小アジアの古代都市で、現在のイズミル県のセルチュク近郊に位置している。古典ギリシャ語読みではエペソス、エフェソ、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれる。アルテミス崇拝で知られたギリシャ人都市であったが、のちにキリスト教を受容し、新約聖書にもエフェソの信徒への手紙がある。(ウィキペディア)

ガイドの説明によれば、世界最古の職業の館もあったという。

パルテノン神殿

アテネのペリクレスが建設した。アクロポリスの丘にある。

さいごにトルコ・ギリシャ旅行の注意

トルコでは人通りの多い露店の試食品には絶対手を出さない事、ホテルの生野菜も控えた方が良い。どのような水で洗っているかわからない。

アテネには集団スリが多い。バッグやリュックは前に持ち、財布は人の前では出さず、パスポートは腹巻に巻くなど細心の注意と警戒を怠らないことが大切だ。      

(218,9,20髙田 忍)